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伝道標語
「徒らに他人門上の霜のみ管して、
自己屋裡の宝を忘るること勿れ」

情報化社会が私たちにもたらしたものは圧倒的な便利さです。

ナビゲーションシステムで知らない土地でも自在にたどり着けるようになりました。ウィキペディアに代表されるネット百科事典で「あれはなんだっけ?」といったふとした疑問もたちまちに解決できるようになりました。自分の思いも、記入電子掲示板などで不特定多数の大勢に伝えることも出来るようになりました。誰もが「万能」の自分を感じられる時代なのです。

しかしそれら分不相応の能力には思わぬ落とし穴もあります。

ナビゲーションシステム通りに進めば間違えた道を指示されたり、ネット百科事典では誤った知識が記されていたり、電子掲示板では「書き込み」によって思わぬ他者からの攻撃を受けたり「情報欄」で偽情報が拡散され冤罪を生んだり、とそれら特別な力に依存すると、とんだ痛い目に遭います。願う通りの便利な能力、つとめて運用を間違わないようにしたいものです。

標題の語は「いたずらに他人の門上に降りた霜ばかりに気をとられ、自分の家の内にある宝を忘れてはならない」という意味です。

「伝光録」において、第二十一祖・婆修盤頭尊者ばしゅばんずそんじゃは若かりし頃大変優れた修行者であったことが記されています。弁論を得意とし数多ある学僧の中で抜きんでた存在であり、日常も一日一食で身を横たえて休むことなく日に六度仏の礼拝を欠かさない厳しい修行を自身に課していました。それ故学友からも絶大に信頼されていたといいます。しかしその姿を見ていた師匠にあたる闍夜多尊者しゃやたそんじゃ(第二十祖)は成仏を願う気持ちが過ぎ執着へと変貌し「切れんばかりに張りつめた弦」のような危うい身心の状態を察しました。そこで「心に願うことがないこと、これが仏道」と諭され、それを聞いた婆修盤頭尊者は大悟されたのでした。

「願い」が強過ぎると自分でも気づかないところで他者の「門上の霜」に目を奪われ、そうした姿をかいつまみ頭の中で理想の自分の姿をつくりあげてしまいます。

私たちは「自分と他人」といった風に、とかく相対的に物事を判断しがちです。比べては理想の姿にある他者の姿を羨望し、「ああなりたい、こうなりたい」と自分の思う理想像を追い、それが過ぎれば自分のことしか目に入らず他を置き去りにする誤った道へと迷い込んでしまいがちです。そうした若き婆修盤頭尊者の危険性を闍夜多尊者は感じ取り正しい道へと導いたのでした。

「ああなりたい、こうなりたい」と自分の願う理想形がいとも簡単に実現出来る(出来たかのように錯覚する)情報伝達社会に生きる私たちにとって特にこの語の含意は大切です。

願うあまり理想にのみ憑りつかれ日常を辛いものとした婆修盤頭尊者が覚醒されたように、自己の願望満たす情報化社会の利便さに気持ち奪われることなく、周囲との調和和合のため日常為すべきことを、急ぐでも怠けるでもなく丁寧に行ずれば、本来持つ「自分の家の内にある宝」に気付きます。

宝とは、婆修盤頭尊者を導いた闍夜多尊者のように他を利する「菩提心」のこと、決して自分のみが利する「願い」の達成ではないのです。

令和元年9月(大本山總持寺 布教教化部出版室長 蔵重 宏昭)

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