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伝道標語
法堂上に鍬をさしはさむ人を見る

早春三月、卒業から入学へと環境も新たに、別れと出逢いの季節となりました。

新しい門出を迎える本人は勿論のこと、そこまで手助けをしていた周囲の方々にとっても、それまでの日々を振り返って、やり遂げたこと、やり残したことに思いを致し、過ぎゆく時の流れに、ハッと思いが込み上げて来ることでしょう。

人生一代の卒業と言えば、それはこの世とのお別れを意味することもありますが、自分の課題を見つけ出し、常に前進しようと努力を重ねて来た方にとっての卒業とは、達成というよりは、途半ばとしか言いようのない思いがしているかもしれません。

瑩山様は、辞世に際して次のようにお示し下さいました。今から六百九十四年前のことです。

「自耕自作閑田地、幾度売来買去新。無限霊 苗種熟脱、法堂上見挿鍬人。」

「人の寄り付かないやせた土地に、自ら分け入って耕してきた。そうしているうちに、来る者・去る者との出逢いに恵まれ、日々を新鮮に生きることができた。ようやく蒔いた種が、芽吹きの時を迎えようとしている。私は旅立って逝くが、私の後に同じように耕す人の姿が見える。」私なりの愚釈です。 私は、 瑩山様の素晴らしさを「霊苗種熟脱」の一言に見出します。

瑩山様は、種が芽吹き茎を伸ばし、花を咲かせたとは言わない。その花が実を結んだとも言いません。ようやくこの種が熟脱の時を迎えたかもしれない。とおっしゃるのです。

しかし、ご自身はそのご一代を終えられようとしています。

励めば励むほど、前へ前へと進めば進むほど、次から次へと課題が見つかって、また進まずにはいられない。そうした人生を生き抜いて来たからこそ、その一言が生まれたのだと私は感じています。

問題は、今まさに人生の卒業を迎えようとしている方が後悔や、やりきれない葛藤の中にあっても、次に託す安心を抱いているかです。そして、結びの一句へと続きます。

「法堂上見挿鍬人」「はっとうじょうに、くわをさしはさむひとをみる」これは、後世に向けて発せられた限りない願いと、心からの期待です。

「私亡き後も、私がそうして来たように、鍬を振るう、つまり、法を説き人々と共に生きる人の姿が見える。」と私は受け止めています。

このことを私たちの日常に照らして言えば、極身近な光景を現しています。 「雪降る季節に雪かきをして、道をつける人の姿が見える。夏、草を刈り畑に水やりをする人の姿が見える。」もっと日常的な一コマに当てはめていうなら「朝起きておはようと言い、顔を洗って身支度を整え、朝ごはんの前に座り、いただきます。と掌を合わせる人の姿が見える。」です。それは、かつて私の身近にいた数多くの人々がしていた行いです。

この瑩山様のお言葉は、私たち一人一人の家庭における先人の願いではないかと思います。そうした方々が私たちに期待をし、かけた願いとは、日常生活の中に、先人に頂戴した我が身をもって、先人がして来た行いを活かし続けていくこと。それがそのまま、先人の期待に応えていく姿であると信じます。

今年五月、新たな元号がスタートします。五年後、その元号が六年目を刻む二〇二四年、 瑩山様の七百回大遠忌が修行されます。

改めて、私自身を顧みて、その願いと期待に応えているのか。問い続けているところです。

平成31年3月(山形県 光傳寺住職 庄司憲昭)

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