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伝道標語
仏の言く、聞思は猶、門外に処するが如く坐禅は正に家に還って穏座すと

現代社会の情報は、私たちの日常生活に必要な量をはるかに上回り、人の思量分別を超え手に余る程です。しかもネットワークを利用すれば何時でも情報を得ることがかないます。同時に大切な個人情報が世界中に出回ることも、場合によっては避けることができないという現実です。こうした情報技術の発展は、私たちの日常を快適にするものですが、取り扱い次第では、人の暮らしを脅かすことにもなり得るということです。

例えば、手元のスマートフォンを介し、目の前に居ない知人と容易に連絡を取り合うことが可能で、写真や動画などもすぐに観ることができます。お仕事でもこうした技術の発展によって、今までは考えも及ばない速度で物事が進んでいるようです。

さて、こうした技術発展によって便利でありながら、心が追いつかないという現実に突き当たることが誰しもあり得ます。思いをめぐらし、自らしっかりと考えを巡らすということがないがしにされたときに、大河の流れにのみこまれるが如く、自分では手に及ばない状態になりえるのです。こうした現実が、人の生活を脅かす個人情報のろうえいや、悪意のある個人攻撃に発展しかねないと言う問題が実際に発生しています。

大本山總持寺をお開きになられました太祖たいそ瑩山禅師様は、ご著書『坐禅用心記』の中で、自らの見聞きしたことや、思いについて「聞思は猶、門外に処するが如く」とお示しです。

このみ教えを、今時の言葉に置き換えるならば、「私たちが得ている情報や、それによって影響されていると思われる事は、全て「私」という本来の自己の外側に起こっていることである」と言うことです。このお示しで大切なことは「私」という自己をしっかりと認識し、他の思いや考えを自己の思いや考えと混同しない」というはからいです。

瑩山禅師様はこのお示しに続いて「坐禅は正に家に還って穏坐すと」とお示しです。

坐禅の心の置き所は、文字や言葉で表しきれるものでなく、個の参禅によってのみ証らかになされるものですが、あえて言葉に置き換えれば「参禅修行は自己が家に帰って穏やかに佇むが如く、穏やかで滞りない」ということです。

社会との接点を無くして生きられないのが人間の姿です。しかし、そうした社会を私たちは、良きも悪しきも全て肯うことになります。

中高生や、場合によっては小学生までも、ソーシャルネットワークで繋がり、その繋がりのなかで、不本意な言葉が交わされ心を痛めている人があります。この問題は命に関わることに発展しかねません。私の生き方に必要なものと、不必要なもの、そしてその私と言う自己をしっかり感じられているかということが大事です。

瑩山禅師様のお示しになられた「家に還って穏坐す」とは、まさしく自己をしっかりと保つこと、すなわち外側からの情報に私を合わせるのでは無く、私というかけがえのない命の存在の実感をたもつことです。「穏坐」とは、厳しい禅の修行という印象からかけ離れた、静かでやさしさまでも感じ得られる瑩山禅師様の慈悲深い坐禅であると私は安心しております。

私たち仏教徒には、「信心」という大いなる心のおきどころがあります。例えば、ご先祖様に掌を合わせ、お仏壇の前に静かに座ります、時にはお墓の前に静かに佇んで思いを寄せることができます。これも瑩山禅師様の「穏坐」でありましょう。

「私の人生」は文字や言葉、外側からの情報では絶対に証明できるものでは無く、自己の体験によってのみ証明される大事なのです。どんなに社会が変化し、世の中が激しく進んでも、私たちは自己を見失うことなく、「穏坐」のある生活、「信心」を保つ人生を送ってゆきたいものです。

令和4年12月(正覚寺住職 中野尚之老師)

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