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伝道標語
外に有相の仏を求むる、卒に是れ非行

お釈迦様から法を継がれた第九番目の方が古代インドにいらした伏駄密多ふだみつた尊者です。上記は、その師匠の仏駄難提ぶつだなんだい尊者(第八祖)の下で出家しついには大悟された時のエピソードに出てくる際の一節です。伏駄密多ふだみつた尊者が師匠の仏駄難提ぶつだなんだい尊者に対し、自身の修行ぶりについて「果たして大丈夫か」と尋ねられた際、仏駄難提ぶつだなんだい 尊者が伏駄密多ふだみつた尊者に諭されたお言葉です。

 

「(自分自身が為すべき仏の行いを)在世の(他の)仏(たる方)に求めても、結局のところ(自身の)仏の行いとはならない」

いくら仏と称されるくらい立派な方や肉親など自分にとって親しい人達が仏の行いを為したとしても、その行いはどこまでいっても決して自分の行いとはならない、他者にまかせず自分の行いは自分であくまで行うべき。ごく当たり前のことですが、この当たり前が実際にはなかなか理解できないことが往々にしてあります。

 

他人の動向が気になる。今に限ったことではありませんが、特にネット社会ともいわれる現況において、ことさらその向きが強くなったような気がします。SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)全盛の中、他者への賞賛・憧憬、また反対に誹謗・中傷などが瞬く間になされます。

他者を評価して一喜一憂する、そんな風潮が助長されているように感じるのは私だけでしょうか。誰もが手軽に他者をジャッジすることの出来る環境が画面の中にあります。

「こうあるべきだ」といった理想の自分を誰彼に投影し、それにそぐわなければたちまちマイナス評価をし、また自分の眼鏡に適った別の誰かを探し出す。こうした繰り返しに陥っている一方、我が身は何ら進展が見当たらない。そんなジレンマに苦しむ人達が秘かにいらっしゃるのでは。

「己事究明」(おのれ自身を見極める)という言葉がありますが、まさに仏道修行の目的そのものです。自己中心を目指す、という意味でなくおのれ自身に向き合うことによっていかに環境に調和し人と和合するか、つまりは自身の正しい道の歩み方を見出そうとすることです。

そして私共では「坐禅」を中心とした修行を為します。「坐」の文字の成り立ちの通り、自分がもう一人の理想の自分と向き合いながら“坐る”。理想の己と向き合うことを忘れず、まずは一日一日の所作振舞を適ったものとしていく。その積み重ねを振り返った時に自分だけの「道」が出来上がっているのです。

令和2年10月(本山布教教化部出版室長 蔵重 宏昭)

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