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伝道標語
果して汝、他の力を仮るべからず

瑩山禅師は、仏道修行を極めるには結局のところ、他の力を借りることはできないとお示しです。このことは、日常的な「人助け」や「助け合い」を否定するものでは決してありません。「身代わりがきかない人生を生きる」ということに意味合いとしては近いかもしれません。

 

 「八月のお盆にて」

 

先月のお盆、山形の庄内地方では八月盆のため十一日から五日間お盆の棚経をお勤め致しました。十日まで連日三十五度以上の猛暑が続き、コロナ対策のマスク着用のこともあり、果たして無事に勤まるのだろうかと心配しておりました。しかし十一日から気温が下がり、秋風のような涼しさの中で勤めることが出来ました。

一方西日本では豪雨による被害が連日報じられ、お経を読みながら私は、大変申し訳なく、勿体ないという気持ちになりました。例年と同じに勤められることが申し訳ないのです。そのような気持ちを保ちながら被災地へ、そして更にはコロナ感染拡大地域の方々へ、思いを込めつつ勤めました。今日一日の私の役割に集中をし、全うすることこそ私の本分。と思い決めての行となりました。

 

 「自己の救済」

 

自己犠牲を顧みず他を助けることは、これまで美談として語られることもありました。しかし今目の前にある「生き延びる」という切実さの中に「まず自己救済」が本分というように、私たちの感覚も変化して来ていると感じます。

先年の東日本大震災でも再注目され、津波から逃れる先人の知恵として語り継がれた「津波てんでんこ」。―ちりぢりばらばらでも、誰かを救おうと思う前に自分を救おう。そのことに皆が意識を集中できれば、みんなが助かるはず―という教えです。コロナ禍の現在政府が発信する「お一人お一人の感染予防対策の徹底」という呼びかけも、まず自己の生命を守ることを訴え続けています。同時にこのことが結局は他者の救済につながっていくのではないでしょうか。

 

 「自他一如」

 

では、他者をあたかも自己として切実に感じる(=救済)とは一体どういうことでしょう。

先述した棚経のお勤め。昨年まで手伝ってくれた私の弟子が今年は中三の受験対策ということで手伝うことができず、私一人での勤めとなりました。何軒か廻らせていただく中に、お仏壇精霊棚前の机に照明スタンドの用意が。てっきりこの家のご家族が、朝にお経のお勤めの際にでも使っているものと思い、それとなく尋ねると、「去年の棚経の際、『仏壇が暗くてお経が読めない』とお弟子さんに言われたので今年は準備していたのに残念です。」というお応え。私は失笑を隠し切れませんでした。また、あるお家では「暑い中自転車に乗り麦わら帽子をかぶって、玉のような汗をタオルで拭いながら、よく頑張っていましたよ。来年はまたお待ちしています。」と。手伝ってはいない今年、弟子の昨年までの姿に出逢うことになりました。そして、私自身が十歳の夏から師匠に連れられて、一緒に歩いた懐かしい記憶が、鮮やかに蘇って参りました。その時、一人での勤めはもはや一人での勤めではなく、それこそ今古を貫いた今日の私の勤めとなりました。

出逢わせて頂いた数多くの他者により、今の自己に至っているという事実。経典を持たずとも経が読めること、衣・着物の身に着け方、そして振る舞い。全ては他者との出逢いあればこそ習得したものです。

私であって私ではありません。自己救済とは、自己の成り立ちに思いを致し、今日のこの自己を全うすること。果して汝、他の力を仮るべからず。」というお示しは、「既に頂いている。一体この上何を頂くというのか」というお示しとして見えて参ります。 それほどの重みある自己であるからこそ、まず第一に救済していかなくてはなりません。

今しばらくの辛抱を重ね、遠く離れた家族や友人との再会を願い、取り組んで参りたいものです。

令和3年9月(山形県 光傳寺住職 庄司憲昭)

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