表題のお言葉を意訳すれば、「言葉の働きに惑わされてはならない。火と言っても火そのものではない。だから火という言葉で火傷することはない(もし火傷したのなら、それをもって火と言うのだ)」となります。
これは『縁起』(全てのものが互いに関わり合って存在しているという世界観)について、陥りがちな誤解を避けられるよう、示唆された教えです。
「私が火に触って火傷した」という文章を読んだ時、普通は、最初にまず燃えている火(存在)があって、そこに私(存在)が触ってしまったこと(原因)で、火傷した(結果)と理解します。まず存在があって原因結果は後という並び順です。
しかし縁起ではこの並び順が変わります。まず燃えているそれに触れ火傷したという原因結果があって、それにより火と火傷を負った私という存在が立ち上り、認識するという順番になります。結果にいたる原因(=行為)が存在(=言葉)を現成させるわけです。
この縁起の教えに沿って、先程の文章を書こうとすると「触って火傷が私する」となるでしょうか。
わかりにくいですよね。別の例をあげます。
例えば天井。天井は頭上にあるから天井です。人の下にあればそれは床と呼ばれます。人を乗せ海に浮かべたら筏です。
また天井は支える柱が絶対必要です。その柱があるためには床も必要です。つまり天井として存在するには、床も柱も、それを天井として使う人も絶対に不可欠なのです。しかしそれぞれに名前がついていると、組み立て前から、天井は天井として、柱は柱として存在しているかのように、私達は思っています。しかしそれは言葉や文法による錯覚です。
立っている棒状のそれに、人が板を乗せた時、そこに柱と天井と人という存在が立ち上る。つまり行為が先にあって、あとからそれぞれの存在の仕方に名前が便宜的につくわけです。繰り返しになりますが、大事なのはどう関係したかが、名前(=存在)を決めるということ。
なぜこの考え方が重要なのか。
それは仏道の一大テーマである『自己とは何か?』を考える時に、どうしても必要になるからです。
「本当の自分とはなんだろう?」
若い時や、また人生上手くいかない時など、その答えを求めます。
「本当の自分とは○○である」○○に当てはまる言葉を探しても、しっくりした答えは見つかりません。一時これだと確信しても、時間が経てば、そうじゃない自分が見つかります。そうならばと様々な自分を羅列し、言葉を尽くしてみても、そんなものは何も言ってないのと同じになってしまいます。
自分を言葉で説明することは、自分の写真を誰かに見せることに似ています。写真を見た人に、「それが私です」と言ったとて、それはただのインクです。焼いても私が火傷することはありません。
しかし縁起によって本当の自分とは何かと問えば、その答えは、何をしたのかということになります。何をしたのかが私を決める。盗みをすれば泥棒となり、人を助ければそれを仏という。泥棒だから盗むのではなく、仏だから人を助けるのではないのです。
あなたにはあなたの道があり、他人の道を歩くことは叶いません。しかしその道をどう歩くかは自由。昨日までできなかったからと言って、今日からできない理由はどこにもありません。人生修行はいつでも始められます。あなたがどうか、自分を嫌いにならないでいられるような、日々の精進を願ってやみません。