お経の中でよく使われる時間の単位に「劫」というものがございます。この「劫」という時間は、例えば一辺が一由旬(軍隊が一日で移動する距離・およそ七キロメートル)もある大きな岩の塊を、百年に一度、空から天人が降りてきて、柔らかい絹の衣の袖でなでますと、少しずつではありますが摩耗していきます。そうして、やがてその岩山がすべて摩耗し尽くされて消滅したとしても、まだ一劫には至らないと言います。
あるいは、一辺が一由旬の鉄壁で囲まれた都市があり、その中はすべて芥子の実で満たされています。そこから百年に一粒ずつ実を取り出していって、最後に都市の中が空っぽになっても、まだ一劫にはならないと言います。
いずれにいたしましても、我々の想像を絶するような長い時間の単位であることには違いありません。お釈迦様によれば、私たちは何千劫・何万劫という長い時間をかけて、少しずつ煩悩を消していって、やがて清らかな仏の心へと変わっていくのだとされています。一度や二度生まれ変わっただけでは、とても煩悩を消し去ることはできないという厳しいお示しです。
一方、今年の七月に、ジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡が、約四十六億光年先にある銀河団や、その遙か彼方にある多数の銀河の姿を映し出したという記事がテレビのニュース等で報道されました。ある新聞では、「宇宙の果ては何も見えない暗闇ではなく、様々な宝石がちりばめられたような黄金に輝く世界だった」というように絶賛しておりましたが、色とりどりに輝く無数の銀河の映像に驚嘆された方も多いと思います。地球が誕生しておよそ四十六億年と言われておりますから、ちょうどその頃の宇宙の映像を、今、目の当たりにしたということになりましょうか。
数年前になりますが、一九七七年に打ち上げられました「ボイジャー」という宇宙探査機が、二〇一二年に太陽系を出たという発表がありました。「ボイジャー」のスピードはおよそ時速六万キロメートルだそうですが、そのスピードであっても、わずか太陽系を出るまでに三十五年もかかるのです。さらに、この世で一番速いとされる光のスピードをもってしても、四十六億年もかかるというのは、まさに想像を絶する距離ですが、一分一秒を争うような喧噪の中で、彼方此方と気ぜわしく駆け回っている日常生活にあっては、とても実感できない時間と空間の単位です。
しかし、どんなに長い時間や空間の単位があったとしても、その基準となるのは、自己の存在です。自己の存在を離れて、遠い過去もなければ、遙か未来もないわけです。たとえ何億光年先の宇宙の彼方といえども、自己を離れて存在するものではありません。逆に言えば、自己があるからこそ、過去もあり、未来もあり、宇宙の彼方もあるわけです。だからこそ、今の自己をどう生きるのかということが、もっとも大切なことなのです。
ご開山さまは、「目前の一行に過去・現在・未来のすべてを行じ尽くし、今のこの一念にあらゆる世界を包み込む」とおっしゃっておられます。今のこの一行を怠ることなく修せよというお示しです。
黄金に輝く無数の銀河に比べれば、あまりにも小さい自己の存在ではありますが、かえってその銀河を包み込むほどの大きな存在でもあるのです。
たった一度しかないこの人生を決して無駄にすることなく、自分の今できる限りの真心を尽くして、日々の精進を重ねてまいりたいと思います。