今月のことのは

釋迦老漢、
 汝等と倶に行住坐臥し
 一時も相離るることなし
しゃろうかん、
 なんじらとともにぎょうじゅうざがし
 ひとときもあいはなるることなし
本山開祖瑩山禅師『伝光録』
第一祖 摩訶迦葉尊者章

六、七年前、近畿地方を中心に寺社仏閣に、相次いで油がまかれた事件が報道され、大きな話題になりました。いたずらにせよ、宗教的行為だったにせよ(一部では香油がまかれたようで、外国の宗教的風習ではないかという話がある)、してはならないことは、はっきりしています。この油のシミをテレビで見て、大本山總持寺の壁にも、シミがあることを思いました。場所は坐禅堂の壁。それも外ではなく、建物の内側の壁です。

坐禅堂は一般の方は立ち入ることができません。拝観を申し込まれたとしても、入り口から中をのぞくことすら叶いません。外部の人が立ち入れない隔絶された場所、その壁になぜ、しかも皆さまが想像するより、はるかに沢山のシミあとがあるのか。修行僧時代のある日、私は身をもってそのシミの正体を知ります。

曹洞宗では面壁と言って、壁に向かって坐禅をします。ある日の坐禅中、建物に雷が落ちたのではと思うほどの「ドゴン」という轟音と共に、脳天に火花が飛びました。そして目が覚めました。どうやら坐禅中私は眠ってしまったようです。そして体勢を崩し、目の前の壁に思いっ切り頭を打ち付けたのです。

すぐさま指導役の先輩に警策きょうさくを打たれ、涙目と沈んだ気持ちで、再び坐禅に取り組もうとした私の目に入ってきたのは、壁についた卵大の色濃い黒いシミ。それは私の頭の油でした。

よく見れば、ついたばかりで色濃いシミの周りにも、同じような形の大小のシミがびっしりついています。今までも目に入っていたはずですが、気にも留めていなかった壁についた紋様。拭いても消えないシミ。

(苦しいのは私だけじゃないよな)

私が坐っているまさにこの場所は、沢山の修行僧が、眠いのを耐え、空腹を耐え、苦しみを耐え、暑さ寒さを耐え、坐ってきた場所。もちろん同輩と一緒に坐っているのですが、その横軸だけではなく、縦軸にいる何千何万という顔も名も知らぬ修行僧と一緒にいるかのような錯覚を覚えました。みんな同じ道の上。私は一人じゃない。坐禅は、お釈迦さまも歴代の祖師も、仏道を歩んだ数え切れない人も、歩んだ道である。ならば坐禅する私は、この道でお釈迦様とつながっている。

本山の修行は厳しいです。摂心せっしんと呼ばれる期間など、終日坐禅堂の中に籠ってひたすら坐禅をします。起きて半畳はんじょう、寝て一畳いちじょう、坐禅を組みながら食事もとります。普段も指導は厳密、覚えなくてはならないことも山ほどあり、勉強で睡眠時間を削ります。歩きながら眠る技を覚えた人もいます。

しかしこの一心に修行に打ち込むということを、「常に釋迦老漢は、修行するものと行住坐臥をともにし、修行僧と一緒に言葉を交わし、ひとときも離れることはない。」というのだと瑩山禅師はお示しです。そう感じられるような坐禅をしなくてはならない、そう思います。

今月いよいよ大本山總持寺のご住職として、石附周行いしづきしゅうこう禅師様が正式にはいられます。新しい禅師様のもと、綿密にますます仏道に親しい修行がなされていくことでしょう。

禅籍『従容録しょうようろく』に、お釈迦様にお寺を建てるように言われた帝釈天たいしゃくてんが、その場ですぐさま草を一本立てて、「お寺を建ておわりました」と言った、という話がでてきます。この話が示すのは、お寺というものは建物を指すのではなく、仏道を行ずる者がいる場所が、どこであれ仏法実現の場であり、そしてそれをお寺というのでしょう。

何百年も変わらぬ価値観を守り、そしてこの先何百年も愚直に繰り返していく。禅道場として、僧たちの仏道修行により、常に釈迦牟尼仏、歴代祖師、道元禅師、瑩山禅師と共にあり続ける場所、それが大本山總持寺なのです。

令和4年10月
青森県 清凉寺住職 柿崎宏隆老師