大本山總持寺は昨年の令和三年(二〇二一年)、開創七〇〇年の記念の年を迎えました。御開山瑩山禅師は能登の地に、元亨元年(一三二一年)總持寺を開かれました。この總持寺開創に当たっては、禅師の夢の記述が残っています。
瑩山禅師が永光寺の方丈の間でお休みになっておられたとき、ある夢をごらんになられました。その夢は大きな観音堂のある寺を訪れると、住職からその寺を譲られるという夢でした。その夢は正夢となりました。瑩山禅師がほどなく、諸岳観音堂といわれていた大きな寺を訪れたところ、住職であった真言律宗の定賢律師から寺を譲りたいとの申し出があったのです。実は、定賢律師も瑩山禅師と同じ時に、ある高僧に観音堂を託す夢を見ておられたのです。
このように、お二人の高僧の夢が偶然にも重なり、真言律宗の寺院であった諸岳観音堂は、新たに曹洞宗の總持寺として生まれ変わることになったのです。
瑩山禅師は語録の中で、時々ご自分が見られた夢の話を引用されておられます。禅師は、夢を絵空事とは思われず、何らかの暗示と考えておられたようです。現代の心理学においては、夢は人の深層心理を表すものとされます。禅師のように常に深い仏教信仰の世界に生きておられた方は、夢でさえも仏教の世界観から決して逸脱することはなかったのではないでしょうか。
表題のお言葉は、總持寺が開創された次の年の元亨二年(一三二二年)に詠まれた歌として知られています。瑩山禅師がご自分で見られた夢を歌に詠んだものとされます。「苔のした」とはお墓の中のことで、歌の意味は、「私がいるということで、たくさんの人びとがいくつもの坂を超え、山の参道を登っては訪ねてくる。おかげで荒れた参道が平らになってしまうほどである。それは、私が墓に入ってしまった後も変わらず続いているのだ。」と解釈したいと思います。
瑩山禅師は、晩年「すべての衆生を、未来永劫、最後のひとりに至るまで、迷いの世界からお救いしたい」との御誓願を立てておられます。禅師は六十二歳の世寿 をもって御遷化なされていますが、この御誓願を果たすためには、總持寺のたゆまぬ歩みと興隆が必須であることは言うまでもありません。表題の禅師のお言葉には、想いを託すべきお弟子たちへの願いが、お言葉の奥に込められているように感じられてなりません。
七月は、總持寺においてはお盆の月となります。この二年程はコロナ禍のために、大祖堂で行う盂蘭盆施食供養も檀信徒の参拝はできない状況でした。またお墓参りもみんなでという状況ではありませんでした。ただ今年は、三年ぶりに大祖堂での参拝が復活することとなり、お墓参りも久しぶりに多くの方の来山が予想されます。
私たちには、尊いこの命をこの世に繋いでくださった、たくさんのご先祖さまたちがいます。その一人ひとりのお言葉を聞くことはできませんし、お顔も全くわからない方がたです。でも間違いなく、ご先祖様たちは瑩山禅師と同じように、私たち子孫の興隆と安寧を願い、いつもみんなで会いに来てくれることを願っているはずです。
今年こそ、だれもが心からご先祖様たちと集いあえる、明るく賑やかなお盆が戻ってきてほしいものです。