五月を迎え本山の躑躅 は満開となり、広大な境内に並ぶ数多くの樹々たちは、そろって新緑の時節を迎えました。新緑の緑には様々な色合いがあり、淡い緑から深い緑まで様々な緑色の織り成す様は、新緑の爽やかな香りとともに、私たちをとても心地よい気持ちに変えてくれます。
その心地よさとは裏腹に、世界は様々な難題を抱えています。特に二月から開始されたウクライナでの戦争は、メディアによって伝えられる惨状を目の当たりにすると、これからの世界の行く末にとてつもない不安と恐れを感じざるを得ません。
また更に不安を増幅させているのが、戦争当事国の正反対の主張です。立場によってものの見方に百八十度の違いができてしまうことに愕然とさせられました。
今回の戦争は、一方から見れば侵略者から平和を守るための戦争であり、もう一方から見れば混乱の地に正義をもたらすための戦争になってしまっているようです。
ただ、どのような見方があっても、現実は日々血が流れ、尊い多くの命が失われていることに違いはありません。そして世界中に、悲しみや、恐怖、憎しみが、日々とめどなく増幅していくのです。
「一体生命とは何ものであり、また、誰のものなのでしょうか」今まであまり考えてもみなかったことを、皆が真剣に考えざるを得ない時代に、私たちは突入してしまったようです。
仏教に「古教照心」という言葉があります。「古の教えが私たちの今の心を照らす」という意味ですが、ここでの古教とはほかならぬ仏教のことです。仏教は二五〇〇年間変わらずに人々の心を照らし続けた尊い教えです。そこには生命についての智慧が蓄えられています。
その一つとして、お釈迦さまは「すべての者は暴力におびえる。すべての生き物にとって生命(いのち)は愛おしい。己(おの)が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳、岩波書店)と説かれています。
仏教にしたがえば、たとえ敵であってもその命は、命として尊ばなければならないということになるでしょう。力の均衡がもたらす平和ではなく、お互いがお互いの命を貴びあうこころがもたらす平和を、人類は目指していかなければならないのです。
表題の言葉は、瑩山禅師が晩年にご自分の御心を言葉にされたもので、禅師の伝記ともいえる『洞谷記』に記述されています。その意味は、「すべての人びとをお救いしたい。それ以外は何の願いもない」といたします。
禅師は、幼い頃より「観音菩薩の申し子」と称されました。またそのご生涯は、実際に観音さまのように、差別なく、あらゆる人の苦しみを憂い、すべての人の幸せを祈り続ける慈悲行に徹した方でした。坐禅においても、「慈悲の想いを忘れてはいけない」と説かれておられます。禅師の想いこそ、私たちの暗闇の迷路に苦しむ心を、照らしてくれる古教にほかならないのです。
本山では、坐禅堂となっている衆寮の外正面に「古教照心」の扁額が掲げられています。今は新緑に覆われた扁額のもと、ひと時でも憂いを離れて心静かに坐って、一日も早い平和の訪れを祈りたいと思います。