ご本山では、毎月十一日に平成救世観音諷経、また十八日の朝には大祖堂において観音諷経、さらにその日の午前中には放光観音諷経を修行しております。
観音様は、私たちを苦しみから救ってくださる慈悲深い菩薩様でありますが、ご開山様もまた、観音様に対する深い信仰をお持ちでありました。それはご開山様のお母様である懐観大師が、常に十一面観音様にお祈りを捧げておられたということが大きく影響しております。
懐観大師が十八歳の時に、それまで生き別れになっていたお母様、つまりご開山様にとりましてはお婆さまの明智優婆夷との再会を願って、京都の清水寺に七日間参籠されたことがございます。その時、ちょうど六日目の道すがらに、十一面観音様の頭の部分を拾われました。そこで「もし、母との再会が成就した時には、そのお礼として、お身体をお継ぎしましょう。」という願をかけられます。その願いが見事に成就して、幸いに明智優婆夷との再会を果たされた懐観大師は、約束通り十一面観音様のお身体をお造りして、一生頂戴のご本尊となさいました。その観音像が、今でも能登の永光寺に祀られております。
また懐観大師は、三十七歳の時にご開山様を懐妊なさいますが、その時にも誓願を立てられ、観音様の前で毎日『観音経』を読誦され、一千三百三十三回もの礼拝を欠かさずに行じられました。このことが、後のご開山様のご生涯に大きな影響を与えたのです。
ご開山様は、お若い頃はすぐにカッとなって腹を立てる、非常に荒々しいところがありました。そのことは、すでに懐観大師も心にかけておられて、観音様に「どうか心の優しい人になりますように」というお祈りを捧げておられました。
ご開山様が十九歳の時、宝慶寺の寂円禅師様のもとで修行されていた時のことです。すでに卓越した力量をお持ちであったご開山様は、維那という修行僧を指導監督する重要なお役目を勤めておられました。
ある日、修行僧の一人が自分の悪口を言っているのを聞き、ついカッとなって、その修行僧に危害を与えようとしたところ、にわかにハッとお気づきになられます。
「自分は仏法の統領となって、人々を教え導くということが本願である。ここで怒りに負けてしまったら、その本願は虚しいものになってしまう。これからは、決して怒りの心を起こすまい。」
そう誓ったご開山様は、それからは実に穏やかな性格になったとおっしゃっておられます。それは、お母様がいつも観音様にお祈りをささげていてくれたおかげであるということまでおっしゃっておられます。それが冒頭に掲げたお言葉です。
このように、ご開山様は、初めから慈悲深い、温和な人ではありませんでした。自分の気に入らないところがあると、すぐに怒りを爆発させるような、荒々しいところがありました。それを日々の修行の中で克服していかれて、そうして慈悲深い、柔和な性格へと変わっていかれたのです。
そして、そこにはお母様の観音様に対する、純真で一途な信仰という影響力があったのです。
私も、自分の気に入らないことがあると、ついカッとなって荒々しい言葉で人を攻撃することがあります。あるいは、口には出さないまでも、心の中で恨み言を言ったり、愚痴を言ったりしています。そんな時は、ご開山様のお言葉を思い出しながら、慈悲深い柔和な人間へと変わっていけるように、日々の精進を重ねてまいりたいと思います。