無明とは
「煩悩の根本である“無明”は自らを明らかにしない。坐禅こそが、己自身を明らかにするのでる。」
無明とは、根本煩悩ともいわれ、その文字からも連想されるように“物事の道理に暗い”ことです。そして私たちはこの根本煩悩を生まれ持ち生を受ける、とも説かれます。
十二因縁は人間の生きざまを説く
仏教の中心的な教えである“因果の道理”は古来より学術的に研究され、特に人間の在り様を説く「十二因縁」としてまとめられたことは特に有名です。人間の在り様のまず最初こそこの「無明」、それから「行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死」と人間の一生を体系的に観察されています。
少し解説するなら、「どこから生まれたか明らかにならず(=無明)もともかくも生まれ、成長するごとに徐々に感覚や感情を得る。その過程で否が応でも“憂い、悲しみ、苦しみ、不安、悩み”を様ざまに味わう人生を過ごし、やがて老いと死に脅えつつ亡くなる」といった“人間の生々しい生きざま”が十二種の言語の行間より読み解くことが出来るのです。
故に、“生々しい生きざま”に苛まれることのないよう、その最初であり大元である“無明”を滅すれば人生の苦脳から離れることが出来る、と古の仏教学者たちは説いてきました。
坐禅を宗とする大本山總持寺
確かに理論はそうかもしれませんが、実際にはどうすれば良いのかと考えた時、お釈迦様が人生の苦悩から離れ成道された際のお姿、つまり坐禅こそ最適の実践、と捉え修行の中心とした宗派が、通称として“禅宗”と呼ばれています。そして曹洞宗の大本山である總持寺でも当たり前のことですが、坐禅中心の修行生活が営まれています。
坐禅の準備を担う 直堂 当番
本山の修行道場は毎朝、暁天坐禅で始まります。坐禅準備のためそして就寝している皆を起こすため、合図の鈴を振り堂内に起床を知らせる係があります。それが、直堂当番です。
二月の未明、まだ堂内は真っ暗な中、当番は起床時間(振鈴時間)よりも二時間前に、誰もが寝静まる堂内にて真っ先に起きます。
当番は慣れないうちは当然暗闇の中でもあり、例えば僧堂内の位置関係も把握できていない不安な状況にあります。それでも何とか一つ一つ悪戦苦闘しながら、皆のため坐禅の準備と振鈴の準備をこなし、時刻になれば鈴を振りながら全山を駆け巡り、僧堂を開放します。
懸命な当番の修行ぶりを観察するに、起きたとたん暗闇に不安を感じる初心の頃も、後には暗闇を物ともせず、まさに「無明」を滅したかのような落ち着きをみせ、自身の為すことを見事に「明らかに」しています。
そして彼らの働きのお陰で全山が無事に毎朝「己を明らむる」坐禅の時間を過ごすことが出来ます。彼らは本山を朝から調えてくれているのです。
調った日常を体現する
冒頭で説かれる「~坐禅は是れ、己を明むる也」という箇所は、単に“坐禅だけすればよい”という意味ではなく、“坐禅を殊更大切にする調った日常を過ごすならば自ずと、無明という不安の暗闇から離れ、己が為すべき道筋が照らされる”という意味で頂戴しております。
坐禅のための“調った日常”、そんな日常が本山の修行道場にあるのです。そして、修行道場以外でも、己の発心によりそれは体現できる、と信じております。