「自宅の玄関に『脚下照顧』と書かれたかまぼこ板が掛かっています。ある頃から、毎日、僕の靴の中に、その板が入っているようになりました。
今まで興味もなかったこの言葉の意味が知りたくなり、辞書で調べました。すると、『履物をそろえる』『他人に対して意見を述べる前に、自分を戒めなければならない』などと書いてありました。いつも母から注意されていることだと気づきました。
先日、歯科医院に行った時、玄関に靴がばらばらに脱いであったので、この言葉を思い出し、自分の靴だけでなく、ほかの人の靴もそろえました。すると、後から来た人もきちんと靴をそろえていました。とても気分がよく、自分の行動一つで、相手の行動も変えられるのだ、と思いました。
母の伝えたかったことが分かった気がしました。もう、僕の靴の中には、あの板は入っていません。」
これは数年前、読売新聞に掲載された中学生の投書です。かまぼこ板に書かれていた「脚下照顧」という言葉は、「自分の足元をよく見つめなさい」という禅の教えです。お母さんは、いつも靴を脱ぎっぱなしにしている少年に、きちんと履物をそろえるようにと、その言葉の書かれたかまぼこ板を、毎日少年の靴の中に入れておいたのです。
そこでこの少年は、その言葉の意味を自分で調べ、それを実行しました。
ここで重要なことは、いくらお母さんが教えようとしたところで、当の少年に学ぼうとする謙虚な心がなければ、それはまさに「絵に描いた餅」、この場合で言えば「絵に描いたかまぼこ」になってしまいます。ところが、この少年は、素直にお母さんの教えを守って、それを実行したのです。
このように、他人の教えに謙虚に耳を傾け、素直に実行するということは、幾つになっても大切なことです。
昔、中国に趙州従諗という禅僧がおりました。彼は南泉普願禅師のもとで修行し、お悟りを開きました。しかし、南泉禅師亡き後、六十歳を過ぎてから再び修行の旅に出かけました。
その時に、「たとえ百歳の老人であっても、私よりも力量が劣っている者であるならば、私は彼に真実の教えを説いて聞かせよう。たとえ七歳の子供であっても、私より優れた力量を持っている人であれば、私は彼に教えを乞おう」という誓願を立てられました。
こうして修行の旅に出かけた趙州禅師は、八十歳の時に「観音院」というお寺の住職となり、百二十歳のご長寿を全うされ、大いにその禅風を振るわれました。
実際、六十歳の老僧が、わずか七歳の子供に教えを乞うということは、あり得ない話であるかもしれません。しかし、たとえお悟りを開こうとも、また、老僧であっても若年僧であっても、謙虚に教えを学ぼうとする姿勢は、いつまでも失ってはならないのです。
冒頭に掲げましたお言葉は、もとは達磨様がお弟子様の慧可大師に対して語られたものです。ご開山様は、このお言葉を『伝光録』の中に引用され、聴衆に向ってお話しされております。その意味するところは、「様々な雑務を離れ、色々と思い量ることを止めて、心を壁のようにして、素直な心で道に入ることが大切である」ということです。
深緑がまぶしい時期を迎えて、涼やかな風が本山にも吹き渡っております。澄み切った青空に向って樹木が真っすぐに伸びていくように、私たちも常に純真な気持ちで、お釈迦様・ご開山様のみ教えに、素直に向きあってまいりたいと思います。