今月のことのは

緑水青山、これ経行の処、
渓辺樹下、これ澄心の処なり。
りょくすいせいざん、これきんひんのところ、
けいへんじゅか、これちょうしんのところなり。
本山開祖瑩山禅師『座禅用心記』

悠久の時を貫いて今ここに、私が坐禅する。

幾多の生命を脅かす外側からの危機、内面の葛藤、それでも私へと繋がる生命のいとなみを最近特に感じます。

瑩山禅師は、修行するには善き指導者のいる処、深山幽谷にいることを勧めておられます。経行(きんひん)とは、坐禅の呼吸のまま組んでいた足を解いて立ち上がり、一息につき半歩ずつ歩みを進めること。澄心とは、調った心のことです。確かに自然豊かな環境に身を置くことを勧めるお示しですが一方では、坐禅そのものの姿に、そうした光景が既に現れている「精神世界」と受け止めることもできます。

「山道を歩く」

コロナ禍・ステイホームの影響により、自坊で過ごす時間が増え、山道を散策することができました。一歩林の中に足を踏み入れると、日中でもさほど陽のあたらない場所に、山野草が花を咲かせていました。上を向くと雪の重さのため、中ほどから折れて先端をなくした立ち木。近づいてよく見ると、折れ残った木の脇から、新たな芽が伸び始めています。落雷に全身を射抜かれた巨木も、樹皮が外側から盛り上がり傷を巻いていく様子に目が留まります。

風雪に見舞われつつ見事なまでに環境に適応している生命の姿。何かを傷つけ奪うこともなく、そして、生き続けることを宿命とする真実の姿が、そこに現れているように見えました。

私たちの心もまた、幾多の困難を経験しながら時々刻々と適応し、無くなった枝先も、またその脇辺りから新芽を芽吹かせながら生きています。身心に自然の姿を頂いているようです。

「私は、自然の一部」

折に触れ耳にする「全ては一つのために、一つは全てのために」というフレーズ、ここ最近この言葉を身近に感じるようになりました。その理由は、昨今「持続可能な開発目標(SDGs)」や「脱炭素社会の実現」といった言葉をよく耳にするようになったからです。

かつて、一部の科学者が提唱する絵空事のように思われていたことが、今にわかに現実になろうとしています。「地球温暖化」と「頻発する自然災害」との関連性です。このまま何の取り組みもしなければ、二〇三〇年には生きていく上で、持続不可能な世界に変わってしまう。今が、その分岐点だというのです。

近年起きている、これまでにない規模の風水害。私たち人類の生活が、環境を変えてしまっていたという現実。しかしこれ迄、他人事、私はまだ大丈夫、などと思い通り過ぎていた数々の事柄は、自分事となりました。この事は、共通認識を胸に、同じ方向を向いて取り組む為の、きっかけを頂いていると考える事もできます。人も自然の一部というところを身近に感じる時代がやって来た。と捉えた方が、より前向きになれる気がします。

ご近所付き合いの中でも、ごみ処理や分別に対する意識はすっかり変わりました。落ち葉であろうとも、野焼きはせず処分場へと運ぶ姿が当たり前となりました。自治会でも、資源やゴミの処理に、予算が計上されるようになりました。

私たちは、もう行動し始めているのです。

「坐禅・共生」

私は、坐禅そして広くは「禅」を「共生」と受け止めています。この身・この息・この心。何一つそれ自体単独で成り立つことができません。そこに至る迄の時の流れ・環境・人のいとなみ。それこそが、私を形作る要素のひとつひとつです。そして、現今の状況にあっても、適応を重ねながら共に生き続ける。という前向きな意思。将来生まれ来る者達が、生き続けることが出来る環境を残していきたい。という誓い・願いにも似た思い。自然の姿に教えられ叱咤激励を感じる今日この頃です。

令和3年5月
山形県 光傳寺住職 庄司憲昭