春の訪れを感じさせる梅の開花が各地で報告されるようになりました。特に今年のような厳しい寒さや大雪の冬を過ごしてまいりますと、温かな春の訪れに一層心浮き立つ思いがいたします。地域によっては、まだまだ梅の開花は先の先というところもあると思いますが、春は間違いなくそこまでやってきています。
禅の教えに、「梅は寒苦を 経て 清香を 発す」という言葉がございます。梅が厳しい寒さを経て、やがて清らかな香りを辺りに振りまくように、人もまた、様々な苦しみや辛さに耐えながら、一層その人間性が磨かれて、やがては他人の心の痛みの分かる、思いやりのある人間に成長していく、そのような気持ちで日々の精進に取り組まなければならないという、そんな教えが含まれています。あるいは、今まで一生懸命やってきた成果が、春という時期をえて、いよいよ大きく花開くというように解釈することもできます。
また、「一枝の 梅花雪に 和して 香し」という言葉もございます。いまだ雪の消え残る中で、梅の一枝に香しい花が咲いているという情景を詠ったものですが、ここで言う「雪」とは、なかなか自分の思うようにいかない世の中のあり様を譬えたものであるという捉え方もできます。そんな時、ややもすると、それを嘆いてみたり、悲観してみたり、あるいは人を羨んでみたり、反対に自暴自棄になったりと、とかくそのことに振り回されてしまいがちです。
しかし、そんな時にでも、決して投げやりにならずに、むしろそこを自らの修行の場と心得て、腹をすえて精いっぱい生きていくという、より創造的な生き方 を示したものであるとも言えましょう。
いずれにいたしましても、梅の花それ自体は、決して寒さを苦としているのでもなければ、雪がいやだと言っているわけでもない、それを見る側がそうした感情を重ねて見ているのであり、だからこそ、一輪の梅の花に何を思い、何を感じるのかという、それを見る側の心のあり方が問われているのです。
もう一つ、中国・宋代の「戴益」という方に「探春(春を探る)」という詩がございます。
尽日 春を 尋ねて 春を 見ず
杖黎 踏破す 幾重の 雲
帰来 試みに 梅梢を 把って 看れば
春は 枝頭に 在って 已に 十分
一日中春を尋ねて歩きまわったが、春は見つからなかった。
藜の杖をついて幾重にも重なる雲を踏み越えるようにして、あちこち歩きまわった。
ところが、家に帰って、ちょっと梅の梢を手に把ってみれば、春はすでに枝の先にあって十分であった。
ここで詠われている「春」とは、私たちの「真実の生き方」であるというように捉えることもできます。つまり、外に向って求め、さ迷っている間は、いつまでも春(真実)には出会えない、その思いを翻して、家の中(自己)をよく見てみれば、春(真実)はそこにこそあるのだというように、「廻光返照」・「脚下照顧」の教えとして受け取ることもできます。
御開山様は、「他人の家の門の霜ばかり気にして、自分の家の中にある宝物を忘れてはならない」とおっしゃっておられます。
おびただしい情報に振り回されることなく、しっかりと自己自身に向きあいながら、心静かに日々の精進を重ねてまいりたいと思います。