「先ずは、是非、善悪、男女と(いう風にいちいち)区別する間違ったものの見方(妄見)から解き放たれなければならない」
この一節は、『伝光録』第四十一祖内で 〝悟りの境地〟について説明された際に登場します。節の続きには〝何もなさず心動かさない境界に留まってもいけない、外や他に求めてもならない、自身が生まれる以前(から存在する自然・環境の働き)に目を向けるべき〟との旨が続きます。
詳細に解説するならば、まずは、是非・善悪・男女など、自分にとって都合の良い一方をとりもう一方を排さず、つまり相対的な見解から離れることが大切。次に、自分はこれで良いと他者に対し無関心にならず、他からの情報に振り回されることなく、刻一刻と変化し続ける環境に適応する精進をなすべき、ということでしょう。
つまり、都合よく「思い通りになる」としがちな自己中心の視点を離れ、実際は自身の都合など関係なく「思い通りにならない」自然・環境の働きに適応する視点に立ってこそ、初めて大切な気付き(悟り)がある、ということを示されています。
新型コロナウィルスは猛威を奮い、今現在世界的に収まりをみせません。各国の政府・首脳、医療機関などが何とか封じ込めに懸命ですが、思い通りにならないのが現状です。改めてコロナウィルスもまた、(きっかけは人為的であったとしても)思い通りにならない自然脅威の一つであることを、否が応でも感じさせます。
一方、私たちの心は大いに揺れています。
新型コロナウイルスの感染が首都圏を中心に拡大していることを受けて、一都三県(東京、埼玉、千葉、神奈川)に対し、新型コロナ特措法に基づき「緊急事態宣言」一月八日付けで発出されました。この発出を皮切りに、一斉に世間の声が喧しいものになった感があります。
コロナ禍で混迷を極める今現在、メディアを通し、人々の様ざまな不安な気持ちが吐露されています。
経済を危惧する声が報道されたかと思うと、翌日には医療体制を心配する声、モラルを憂う声があったかと思うと、行き過ぎたモラル違反摘発の事例が報道されたり…。まるで寄せては返す波のように論調が様変わりしていく中、私たちはさらなる不安を否応なしに煽られます。
こうした時だからこそ、瑩山禅師のこの至言を心静かに受け取る機会なのです。
玉石混交のメディア情報をまとめて鵜呑みにすることは、徒に心疲れることです。かといって面倒がり無関心となり、衛生予防を無視してもいけません。
どんな権力者も国家も権威も、今の状況を一変させることが出来ません。コロナ禍は、まさに現代版自然の脅威であり、決して都合よく思い通りに対処できないことは骨身に沁みました。こうした状況下、実は個人単位で為すべきことは単純明快です。
まず、他からもたらされる様ざまな楽観論や悲観論などの 〝妄見〟から離れること。
そして、現状下で私たちが自覚的に何をすべきか、適応の実践を専一に精進すること。
適応の実践とは何か。それは、耳慣れたかもしれませんが、「マスク、手洗い、ディスタンス」、そして不要不急の外出を避け少しでも感染リスクをさげること。
今や妄見を離れ、既に適応の実践の時なのです。