この夏は、コロナ渦の影響もあって外出されることを控えて、自宅でテレビを見る機会も多かったと存じます。また番組も普段のありきたりの番組だけでなく、人間の心を深く掘り下げるような内容の番組も多かったような気がします。
そんな中、私の目に留まった放送がありました。それは、国内で最も過酷な行と言われる、大峰千日回峰行を満行された塩沼亮潤大阿闍梨 を特集した番組でした。
大峰千日回峰行は、奈良県吉野の 大峰山で、往復四十八キロメートル、高低差約千三百メートルの山道を一日十六時間かけて、延べ千日間歩き続ける修行で、千三百年の歴史で達成したのはたったの二人という荒行です。
そのとてつもない修行もさることながら、私が特に驚いたことは、塩沼大阿闍梨の脳をMRIで診断したところ、明らかに右脳前頭葉の一部が委縮し脳細胞が欠落していたことです。検査した医師は、理由がわからないと大変不思議がっていました。
番組の説明によると、右脳前頭葉のこの部分は、人間の憤りや欲望をつかさどる部分だそうです。仏教の言葉でいうと、まさに煩悩をつかさどっている部分だといえます。そういわれてみると、大阿闍梨のどんな事にも怒りや恨みの感情を持たず、常に感謝のきもちを忘れないといった、仏様のような佇まいにも納得できるものがありました。
仏教を信じる私たちの理想も、この大阿闍梨の佇まいの様になることだと思います。しかし、当然脳の姿を変質させてしまうような荒行はできるはずもありません。だったら私たちにできるすべはないのでしょうか。
私は、その答えは「禅」であると思います。「禅」は、日常の生活を我心を持たずに淡々と送り、何事に対しても常に感謝の心をもって営む易行です。
欲望や、怒りや、恨みといった煩悩が多すぎると、人はいつも成果のみを求めて不満が積り、日常どうしても感謝の気持ちを持つことはできません。禅の生活を続けることによって、私たちからはいつの間にか、やみくもに成果を求めてあくせくする心が消えます。そしてありふれた日常の尊さに気づき、目の前のどんな些細なことにも感謝できる心が生まれてくるのです。
表題のお言葉は、瑩山禅師が撰述された『伝光録』の一節です。私なりに「真実は、執ろうとしても手に入ることはなく、求めようとしても何の痕跡も得ることはできない。ただあるが如くある。これが諸仏の妙法である。」と解釈いたします。
このお言葉を通じて、禅師は私たちに、「仏法は求めて得るものではない。今ある日常の姿こそ仏法であり、それに気づくことが何より大切なのだ」と教えておられるのだと思います。
コロナ禍の中、しかたなくただ閉じこもってストレスをためるのではなく、天から授かった時間だと感謝し、この際、もっと深く自分自身を見直すきっかけにしたいものです。