食事をする前に手を合わせて「いただきます」と言い、食事を終えてから「ごちそうさまでした」と言うことは、今ではどの地方でも普通に行われておりますが、その歴史は意外と浅く、一説によりますと、昭和に入ってから、テレビの普及と同時に全国に広まり、それが定着したのではないかと言われています。
「いただきます」という言葉には、目の前におかれた食物をいただくという意味ももちろんありますが、それを作ってくださった方々や、天地自然の恵みに対する感謝の気持ちも含まれています。手を合わせるという行為は、そのまま感謝の心の表れです。ご開山さまは、「お釈迦さま(白毫)が覆い育む恩恵を、私たち(遺弟)は受け用いて、食事をするのだ。」とおっしゃっておられます。そうした謙虚な気持ちを忘れずに食事をしなさいということです。
一方、「ごちそうさま」という言葉は、「馳走」という言葉に、「ご」と「さま」という二つの丁寧な言葉が組み合わさってできています。「馳走」というのは、駆け走ること、つまり、あれこれと走り回ってお世話するということであり、そうしたおもてなしに対する感謝とねぎらいの言葉です。
ですから、私たちは食べる前と食べた後に、重ねて感謝の気持ちを表しているのです。感謝と喜びの心をもって生きるということは、仏さまの教えそのものです。
また「いただきます」という言葉には、命そのものをいただくという意味もあります。自らの命を維持するということは、他の命をいただくことです。たとえ野菜しか食べないという人であったとしても、結局は野菜の命をいただいていることになります。まさに「命をいただきます」ということなのです。
したがって、もしその人が罪を犯せば、食べられた側の命は、罪を犯すために使われたことになってしまいます。これはものの命を殺すことに他なりません。反対に、世のため人のために働けば、食べられた側の命も、ともに世のため人のために使われたことになり、結果的にはそのものの命を生かすことになります。
このように、いただいた命を生かすのも殺すのも、すべては、それをいただいた側にかかってくるのです。ですから「いただきます」という言葉には、重い責任が課せられているということにもなります。
さらにもう一つ、「米という字は八十八と書く。それほど手塩にかけて育てられた米であるから、一粒たりとも粗末にしてはならない。」とか、「一粒のコメの中には七人の仏さまがいらっしゃる。だからお茶碗に残った一粒のお米も粗末にしないで、ちゃんと最後まできれいに食べなさい。」などということは、多少表現に違いがあるかもしれませんが、全国どこでも同じように教えられています。そして、これは単にものを大切にするということだけではなく、一粒のコメの中に、お前は一体どんな世界を見ているのかという、その人の見方・考え方、あるいは人生そのものを問われていることなのです。
お盆の時期を迎えて、久しぶりに里帰りした親戚との再会や家族との団欒、あるいは同級会や仲間同士の親睦会など、純粋に食を楽しむということも決して否定されるものではありません。時には仕事の接待の場として、食事を通して商談を成立させるということもあるでしょう。
しかし、たとえ楽しみや仕事の中にあっても、常に感謝の心を忘れず、節度のある食生活を通じて、健全なる心と身体を養ってまいりたいと思います。