坐禅は仏のお姿そのものである。坐禅はまさに仏の行いである。禅籍を紐解くとこうした教えが数多く出てまいります。
一方で、大正昭和を代表する禅の大家、澤木興道老師は、坐禅は「なんにもならない。」と平生示されておられたそうです。澤木老師はここ大本山總持寺において、修行僧を統括指導されるお役も務められた名僧です。
「坐禅は、仏のお姿そのものである」と坐禅は「なんにもならない。」という、一見相反する二つの教えは、同じことを示しています。
それは坐禅が「見返りを求めない姿」そのものであるということです。
巷で出ている坐禅入門書の中には、「坐るとこんな効果があります」というような紹介が出てきますが、興味を持っていただく為の方便にすぎません。
宗門の坐禅は只管打坐。ただ坐るだけです。世の中を渡っていく上で必要な知識や技術、肩書、悟りとか、仏教の知識すら、全部横にどけてしまって坐る。見返りのない坐禅なのです。
しかし「ただ坐る」と教えられ、それを心掛けておりましたが、やはりどこかで私は、
「なんにもならないのになぜ坐るのか。」と感じておりました。それでもきっと何か答えがあるに違いないと、坐っておりました。
そうして坐っておりますと、ある時、一つの問いが立ち現われました。
「見返りがないと、お前はやらない人間なのか?」と。
これは私にとって衝撃的でした。坐禅が私に示したのは、答えではなく、問いだったからです。
(全く見返りがない時、私はなにをする人間なのか?)
坐禅には一切の見返りがない故に、坐る人に「では、ただのお前はどういう人間なのだ」と、坐禅が問うてくるのです。
この問いから逆説的に、日常をいかに自分が、見返りにより行動をしているか、させられているかに思い至りました。
私たちはよい見返りがあればやります。その大きさを量って、見合う我慢もするでしょう。仕事をして報酬を貰う。何かをして感謝される。お酒を飲んで楽しくなる。また、人から褒められたい、愛されたい、すごい人だと思われたい等々。
一見無欲のボランティア活動であっても、そこにやりがいや喜びがあるからやるという理由であれば、それは見返りがあると言えます。もちろん悪いことではないです。
見返りを求める心も、頑張るモチベーションです。ただ過去の成功体験や自分の思いに縛られ過ぎると、心のバランスを崩し、苦しみが待っています。時に、苦しいはずなのにやめられないという、悪循環にさえ陥ります。ここは気を付けたいところです。
○○だから△△する。言わばこれは自分以外のものの反応、もしくは我欲に、大なり小なり振り回されている状態です。普段はなかなか気づけない、私を支配するこの行動原理から離れてみませんか。すると本来私はどういう人間でありたいのか、今度はそれがテーマになります。
そこで見つけた自己は、見返りのあるなし等の条件抜きですから、行うことに煩いや力みが生じませんし、疲れても爽やかです。誉められてもそうじゃなくても、のぼせず落ち込まず、心が静かです。
想像してみて下さい。
二度と訪れることない旅先で、月も隠れた真夜中、暗い道にゴミが落ちています。周囲に人の眼もなく、仏も眠っている。拾っても拾わなくても、世界に影響もないであろう、そんな場面。
そのような時に、ゴミをただ拾う人。これを私が私であるゆえ、自由自在と言うのでしょう。
坐禅は是れ己を明むるなり。振り回されている自分と、そこを離れ私がどういう人間でありたいか、そこが明らかとなるのです。