「多くの教え・知識を聞くのみで満足してはならない。ただ、真っすぐ(仏としての自身の道を歩むため)勇猛果敢に精進すべきである。」
この言葉に触れるたび、かつて仏教系大学で仏教学の教授を勤められていたとある老師のエピソードを思い出します。
それはまだ老師が教授在任の頃、論文執筆などで明け方まで机に向かわれることが多かったにもかかわらず、時間になれば住持されていたお寺の学僧たちと暁天坐禅や朝課、さらに応量器展鉢による朝食、と如法に勤められていました。ある時学僧の一人が「御無理なさらず朝のお勤めは免除されては」と申し出たところ老師は「論文執筆は私の好きでやっていること、お勤めこそ私の本分」と、それからも変わらず二足の草鞋を履きながら揺ぎなく学僧たちと共に行持を勤め続けられたのでした。
一つでも多くの知識を得たい、また得たならばそれ相応の優越感を味わいたい、とつい思ってしまうのが人情でありましょう。
しかし「多聞」であることよりも僧侶としてお釈迦様の法孫としてまずなにをなすべきかをお示しいただいたことでした。
この章に登場する阿難陀尊者は、お釈迦様のいとこにあたりお釈迦様が入滅されるまで侍者として約二十年も随身された方です。
容姿端麗でお釈迦様の説教をだれよりも記憶し「多聞第一」と称された十大弟子の一人でも有名です。
しかし、十大弟子の中でお釈迦様の生前中にお悟りを開かれなかった唯一の弟子としても有名なのです。
『伝光録』ではお釈迦様の滅後、一番弟子で「頭陀第一」と称された摩訶葉尊者の主催で頻婆羅(ヒッパラ)窟という洞窟にて結集(けつじゅう)というお釈迦様の遺された教えの編纂作業に入りました。その際、お悟りを開いた主なお弟子様たちを招集したのですが、お悟りを開いていない阿難陀尊者の入室を認められませんでした。
大いに落胆しつつも決意し思惟され、そしてお悟りを開き、得られた神通力で体を小さくして洞窟の扉の鍵穴から入ったおかげで、結集での編纂作業に大きく貢献することが出来、その後さらに摩訶葉尊者に約二十年師事したのち伝衣された、との伝説が記されています。
お悟りを開く以前の阿難陀尊者は「多聞」であることにかけて右に出る者はいないくらいでありました。しかし、他者より博学であることを誇るがあまり自己中心的となり驕慢我慢が大きくなっていたことが想像できます。
しかしお釈迦様滅後の結集に参加できないショックがあったから改めて我が身を顧みる機会を得、そして知らず身についた驕慢我慢が「鍵穴に入るくらいに小さくなった」からこそ扉の向こうへ入ることが出来たのだ、と一見荒唐無稽な伝説は含意していると思います。
知識を蓄え広く様ざまな分野を学ぶことは決して悪いことではありません。しかしそのことに引き摺られ為すべきことの初心・発菩提心を忘れてはならない、と阿難陀尊者は自身の失敗談を通し後世の私たちに披露されているかのようです。