本年は、大本山總持寺の中興の祖と言われる石川素童禅師が御遷化されて、百回忌の年に当たります。總持寺では、百回御遠忌として、十一月二日から五日にかけて本法要を厳修致します。 石川禅師は数え九歳の時、お父様に連れられて菩提寺の授戒会に参加いたしました。その時に出会った仏教の教えに感銘を受け、出家を決意されたと伝えられています。そして五年後に、名古屋の泰増寺にて得度され、正式に曹洞宗の僧侶となられたのでした。
その後は全国の寺院で研鑽を積まれ、二十二歳の若さで泰増寺の住職に任ぜられました。その後のご活躍は目覚ましく、主だったところでは彦根の清凉寺、世田谷の豪德寺、小田原の最乗寺と住職を歴任され、一九〇五年六十五歳にて大本山總持寺の貫首となられておられます。
ところで、石川禅師の次に貫首になられた新井石禅禅師は、禅師を、「政務上の見識、創業上の手腕、整理の才能、綿密の行持、いずれも一代に傑出しておる」と称されておられます。そしてそれら全ての根底に「一大道心力」が感じられたと述懐されておられます。
石川禅師は、幼きながらにも仏道を求める道心があったからこそ、数え九歳の時に出会った仏法に感銘をうけ、出家を決意なされたのだと思います。
その石川禅師が、未曽有の困難に直面なされたのが、明治三十一年五十八歳の時でした。能登にて六〇〇年の歴史を刻んできた大本山總持寺が、大火によって灰燼に帰してしまい、その姿を目の当たりにされたのです。
その時は、呆然と立ち尽くして嗚咽するのみであられたそうです。
しかし、その後貫首となられた禅師は一大決心をなされ、總持寺の復興の陣頭を取られることとなります。そして、總持寺の鶴見移転を英断されたのでした。
この御移転の大事業は困難を極めましたが、禅師の指揮のもと各界のご尽力もあって、新たな地で見事に大本山總持寺の復興は成し遂げられたのでした。
この成功は、石川禅師の才覚もさることながら、「尊い仏法を絶え間なく歩む」という「道心」に支えられていたからこそ成し遂げられたに違いありません。
總持寺三松閣大講堂に、「道高くして志に勤む」という、禅師の書を彫った扁額が掲げられています。私は、「道心高くして志に勤む」と読み替えたいと思います。禅師の高尚な道心があったからこそ、御移転という大いなる志を達成することができたのではないでしょうか。
表題は、大本山總持寺御開山瑩山禅師が撰述された『伝光録』のお言葉です。意味は、「禅を志し禅に参ずるのには、まず道心がなければならない。これがなければ、いくら理解して解ったようになっても、本当は何もわかっていないのだ。」と私は解釈いたします。
世の中には、大きな業績を成し遂げたと称賛される人々がいます。そのような方がたが、必ずと言ってよいほど口にする言葉は、「みんなの幸福のために」という言葉です。
「人類のために」という利他の思いが道心として根底にあるからこそ、どんな困難をも乗り越えて、志を達成することができるのです。