私がお預かりしているお寺では、四月八日お釈迦様の降誕会から、お悟りを開かれた日である一二月八日の成道会まで、毎朝五時過ぎになるとお檀家さんが数名来られます。そして朝の短いお勤めをし、そのまま本堂で四〇分程坐禅をします。東側の窓から差し込む朝の光が、本堂にうっすらと漂う線香の煙に反射します。何とも言えぬ穏やかな時間が流れていきます。
瑩山禅師さまが記された『坐禅用心記』。その中に、「長息なれば即ち長に任せ、短息なれば即ち短に任せ」とございます。これは坐禅中における呼吸のあり方です。長い息の時は長い息、短い息の時は短い息をする。気合を入れて深く吸ったり吐いたりせず、呼吸はどこまでも自然体あることが肝要と説かれております。しかしこれは、なにも呼吸のことばかりではないと感じるようになりました。息とは自らの心と書きます。このお示しは心の事でもあるのだろうと、今受け止めております。
今から十五年前のちょうど今頃、私は高校生の妹を事故で亡くしました。「いってきます。」というその背中を見送ったのは私でした。警察から電話が入り、そこからはまるでテレビの中の出来事のように現実感がありませんでした。お葬式ではなぜ真ん中に大きな写真になった妹が飾られているか不思議に感じたのを覚えております。現実を受け止めきれなかった私は、火葬場でも一人後ろの方に立っておりました。今思い返すと側に居てあげればよかったのですが、その時私は、私の悲しみだけを見ておりました。
この『私が一番悲しい』という、その思いが家族を思いやる力を奪いました。家族誰もが悲しいのですが、自分が一番悲しいという想いにとらわれると、今度は相手と自分の悲しみ方の違いに目が行き、それがだんだん態度を硬化させます。
例えば妹の友人がお仏壇に手を合わせに来てくれた際、父と母はそれを笑顔で迎え、その子たちの話を楽しそうに聞いています。それが信じられませんでした。その子たちが大学進学や結婚報告などで家を訪ねてくれる度、大人になっていく姿を見るのはつらいものがありました。私の両親は平気なのだろうかと。こうした両親と私の態度の差異からくる、すれ違いを溶かしたのは坐禅でした。
坐禅はこの「私が」という吾我を離れていく修行です。坐禅を行ずることで、自分中心の悲しみから離れられた時、苦しいのは私だけじゃない、皆苦しいのだと素直に思えました。そうしましたら、その苦しみ悲しみを共に受け生きる、隣の人を大切にしていきたいと、願うようになれました。
結局私は事故以来の数年「私は悲しい」「私は苦しい」「私はつらい」という「私」で一杯になっていて、子を亡くした親の方が(勿論比べられることではないかもしれませんが)何倍も辛いだろうという、想像力さえ失ってしまっていました。両親が妹の友人を快く迎え入れるので、十五年経った今も、仏壇には毎年この時期色とりどりの春の花が咲いております。
ただ胸の痛みが時間とともに消えてしまうことはないです。写真の中の人が齢をとらないように、強い悲しみもまた変化はすれども、色褪せていかないという事も知りました。でもそれでいい。私が亡き妹を想って苦しいのは、私にとって掛け替えのない大切な人だからでしょう。ならばむしろこの痛みは失くしちゃいけない。やっとそう思うようになりました。長い息の時は長い息のままに。短い息の時は短い息のままに。寂しいときは寂しく、悲しいときは悲しいままでいい。苦しいままでいい。そう腹が据わったら、苦しみは少し楽になったのです。