禅僧の中で大変有名な一休さんをご存知でしょうか?一休さんの生き方そのものを画いた絵本やアニメも大変人気で、幅広い世代に愛されてきました。そんな一休さんにこんな面白いお話があります。
お金持ちのご主人が、亡くなって、一休さんはお通夜を頼まれて枕経に行きました。一休さんは、亡くなられたご主人の枕元にお座りになったまま、いっこうにお経を始めようとしません。後ろでお参りをしている家族が、しびれを切らして「一休様はいつになったらお経を始めてくれるだろうか」と言い出しました。その時、一休さんはみんなの方を向いて「亡くなったご主人が一生涯愛用していた小槌を持ってきてくれ」と仰いました。お通夜のお経を読むのに、なぜ小槌が必要なのだろうと思った家族ですが、一休様が持ってこいと仰ることですから、亡くなったご主人が愛用していた小槌を持ってきて、一休さんに差し出しました。
すると一休さんはその小槌を受け取ると、亡くなったご主人の頭をコンと叩いたのです。みんながびっくり仰天しまして、「いくら一休様でも亡くなった主人の頭を叩くという法はないだろう」と怒りました。すると、「亡くなったご主人は、私に頭を叩かれて痛いと申したか、どうだ返事ができんだろう」と一休さんは仰いました。「仏の教えである経は、生きているうちに聞くもんじゃ。一生涯愛用していた小槌で自分の頭を叩かれても、痛いと言えなくなってからでは遅いのじゃ」と仰った、というお話が伝わっております。
一休さんはこのことから、何事に対しても死んでしまってからでは遅い、人は生きているうちに学び、実践するべきであると教えています。
私たち曹洞宗の大本山である總持寺の御開山瑩山禅師様は、「仏語を見るは、仏身を見るなり、仏身を見るは仏舌を証するなり」とお示しです。
これは仏様のお言葉を見るということは、仏様の姿をみていることと同じであり、仏様の姿をみているということは、仏様の教えを日々の生活の中で行じていくということなのです。
では、どのようにして日々の生活の中で教えを行じていけばよいのでしょうか?
それは何も難しい事ではありません。お寺に足を運ぶことです。
大本山總持寺にはたくさんの修行僧が厳しい禅の修行をするため、全国各地より参ります。お寺の中では、午前四時ごろから始まる坐禅、大きなご本堂で行う朝のお勤めがあります。
そこには自我を離れ、仏様の姿をした修行僧たちが背を正し、お経を唱えます。そのお経がご本堂いっぱいに響き渡るのです。つまり、仏様、瑩山禅師様の教えがご本堂に溢れるのです。
そこに自分の身を置くとき、心と体で仏様の教えを感じ、自然と背が正され、自ずと手を合わせてしまいます。これが仏様の姿なのです。
何かに悩んだり、苦しんだりできるのは生きているからこそできるものです。それらを解決出来るのも生きているからこそできるのです。そのために仏様の教えがあるのです。
一度きりの人生、今ここをどう生きていくか。頭で考えるのではなく、心や体で考えてみてはいかがですか?