例年年明けの箱根駅伝の熱戦は、みる者全てに感動を与える新春の風物詩です。
最近はとみに注目され、詳しく箱根駅伝を走る選手たちの分析や解説をするアマチュア評論家たちがこの季節急に増えるのも特徴です。また、毎年箱根駅伝が終わった直後から、にわかランナーがあちこちの公園や河川敷で増えるとのこと。
箱根を走った選手の熱い想いがみる者の心を揺さぶる証でしょう。しかしながら、評論家もにわかランナーもしばらくすれば熱も冷め飽きてしまう、といった風に熱したり冷めたりを繰り返すが毎年のことです。
模倣や評論といった傍観者の立場と、全身全霊で取り組む当事者とでは天と地ほどの差があるのは言わずもがなです。
標記の文章は、「歴代の諸々の仏たる祖師方が道を成す(悟る)機縁を掴むことは、長い短いといった修行期間でもってはかられるものではない。(自己究明をいかに徹底したかによるものだ)」といった内容です。
この文章は通称「六祖慧能」と呼ばれる中国六祖・大鑑慧能禅師を評したものです。大鑑慧能禅師は中国五祖弘忍禅師に参学され、弟子の内でもその順は日も浅く末席でした。
ある日、弘忍禅師は弟子たちに悟りの境地が如何なるものか問いかけました。その問いに高弟が「心は仏をきれいに映しこむ鏡台のようなものだからその時その時に磨くべき」と答えたところ、慧能禅師は「明鏡台に非ず(心は仏を映しこむ鏡台などではない)」と否定され、「心は仏を映しこむ鏡台などではなく、(心も含め)本来自分自身が仏になる存在である」との内容を答えられ衣鉢を継ぐ(法を継ぐ)ことになった、と故事で伝わります。
瑩山禅師はその故事をふまえこの章のなかで「本来自身が仏であることを覚悟すべく、 ひたすらな精進が必要」ともお示しです。 その上で改めてこの文章の意味を噛みしめるならば、六祖慧能禅師や瑩山禅師からの叱咤が聞こえてきそうです。
普段の日送りにおいて、本来は為すべきことを為さねばならぬ我が身なれど、知らず他人事のように傍観し、その時その時の励みぶりが時折・時たまの励みぶりへといつの間にか変わってしまう。胸に手を当て思い返せばそんなきらいがあるのではないでしょうか。
箱根駅伝のように速く走るといった特殊能力を発揮することは誰もが出来ることではありません。しかし箱根駅伝の選手のように当事者として、それぞれの日常行持においてその時その時より綿密に、一瞬一瞬の「今」を大切に扱うことは誰にでも出来得るのです。
徹底して自己究明された結果たちまち大悟された慧能禅師に及ばずとも倣い、年新たに他ならぬ当事者として為すべきことを為す決意をされてみてはいかがでしょう。