数年前になりますが、かつて漫才ブームと言われた時代に、「春やすこ・けいこ」というコンビ名のもと、「漫才界のピンクレディー」と呼ばれるほどの人気を博した春やすこさんの講演をお聞きかせいただいたことがございます。
春さんは、自らの体験をもとに、時折、持ち前のユーモアを交えながら、子育てについての様々なお話をされました。
その中で、「他人の家の子どもと比べない」ということを心がけて子育てされたところ、たいへん気持ちが楽になったということをおっしゃいました。
「となりの芝生は青い」ということわざがございますが、どうしても他人様の子どもさんと比べて、「自分の子どもは少し劣っている」とか、「あの子よりはまだましだ」などと、勝手な判断をしながら、かえって自分の悩みを大きくして、苦しみを作り出しているということに気づかれたというのです。
この「他人(相手)と比べる」という心を、仏教では「慢心」と言い、もっとも根源的な煩悩の一つに数えられています。
「煩悩」というのは、読んで字のごとく「煩い悩む」ということであり、自分の心の中からわき出でて、自分自身を煩わしく悩ませ、安らぎを妨げるという、たいへん厄介な心ですが、この煩悩の働きによって、私たちは随分と生き方に苦労しているのです。
その煩悩の一つに、先ほどの「慢心」という心があるわけですが、なぜ相手と比べるということが煩悩なのでしょうか。
それは、その心の奥深いところに、常に「自分の方が相手よりも勝れている」「自分の方が優位だ」と思いたいという、身勝手な願望が潜んでいるからです。
素直に現実を受け入れずに、いつも相手を見下して優越感に浸りながら、自分自身を満足させたいのです。そうした身勝手な願いのために、返って自分自身を悩ませるだけでなく、時には相手を激しく攻撃し傷つけることにもなります。
冒頭に掲げました瑩山禅師様のお言葉の中にある「生死去来」とは、生と死の狭間で右往左往している、いわゆる二元対立の世界(他と比べる世界)であり、「慮知分別」とは、その中で色々と思いめぐらしながら(慮知)、自分に都合のいいように勝手に選り分ける(分別)ことです。
ですから、そのお言葉の趣旨は、「私たちの本来の姿、すなわち仏の御いのちは、相手と比べて、あれこれと思いめぐらして判断するものではない」ということです。
時には、「あこがれの人」と言われるような、自らの目標となるべき人物との出会いによって、「私もあの人のようになりたい」という気持ちが、より良き自己を創造していく場合もございます。
また、「好敵手」と言われるような、良きライバルを持つことによって、「あの人には絶対に負けたくない」という気持ちが、自らを奮い立たせ、ますます自己の技術向上に邁進していくという場合もございます。
ですから「相手と比べる」ということは、一概に否定されるべきことではありません。
しかし、人はそれぞれ取り換えることのできない、たった一つの尊い命を生きています。いたずらに「比べる」ということによって、本来の自分の姿を見失うようなことがあってはなりません。
「脚下照顧(足元を見よ)」という禅の言葉がございます。自らの足元、つまりは自分自身としっかり向き合いながら、今という時を精一杯生き抜いていく、そうしたひたむきな生き方を心がけてまいりたいと思います。