古来より、参禅学道するには、正師を求むべきであると示されています。正師とは、真師すなわち真実の師のことであります。参徹とは、参究徹底のことであり、悟りにつながる正しい参禅学道のことであります。
つまり、仏道修行は正しい指導者(正師)のもとでしっかり参禅学道をなせば、祖師様方以来の正しい仏法を明らかにすることが出来る、ということです。
故にまずは、正師にいかにして出逢うかが、修行するにおいて重大な命題なのです。
正師は年齢に関係ありません。しかし、その師は、正伝の仏法を明らかに把握し、安心を確立し、弟子の悟りが師匠の悟りにかなっており、仏祖の命脈に通じ、正師としての照明を受けた師でなければならないのです。
そして、学問的理解のみを優先せず、世間の尺度に囚われず、悟りに通ずる資質を持ち迷・悟・凡・聖などの観念を超越した気概を持ち、自分の考えだけに囚われず、修行と学問、実践と理論が一致している師を正師とするのです。
修行者は、名誉、利益など、エゴの心を捨てて、自分の全身全霊を投げ入れる「仏の家」の主人は、真実の正師でなければなりません。正師でなければ、仏の子を仏の子として、正しく導くことはできません。そうでなければ、仏法は正しく相承されません。
世の中には、多種多様の職業があります。その 仕事をする人の中には、優れた仕事をする人がいます。しかし、誰でも最初から仕事をしっかり出きる人はいません。
初めは何もわかりません。いろんなことを教えてもらい、勉強をして、先輩の真似をして、やがて、しっかりと仕事が出来るようになるのです。真似をすることは大切です。只、誰の真似をするかが大事になります。
指導者の存在が重要です。どんな指導者に巡り合うかということです。例えば、スポーツをする人にとって、コーチや指導者の存在は大きいと言われます。
時代劇の映画やテレビドラマでは、お坊さんが登場する場面があります。その時に、網代傘に杖を持ち、手甲、脚絆で歩いています。その姿は、指導者を求めて歩いている場面でもあります。正師に会う為に諸国行脚をしていたのです。
そんなお坊さんを雲水と呼びます。行雲流水を略して雲水といいます。古来は正師に会えたらそこに留まり修行に励みました。
今の時代は雲水が先ず先にここと決めた道場へ赴きます。そこで、逢う様々な指導者によって修行の縁が出来ます。もちろん、修行者の求道の気持ちがその縁を結ばせるのです。
時代が変わっても、修行の内容は変わりません。
良い先生に巡り会うと、指導を受ける人はその人の長所が引き出されていき、すばらしいものが現れてきます。仏道においても、師匠の存在により、弟子の成長も変わってきます。正しい師匠に出会うことが、いつの世でも、どんな世界でも大切になってきます。
良縁で良い先生・師匠に出逢えることを願っています。