三学とは戒・定(禅定)・慧(智慧)のことで、仏道を修行する者の必ず修めなくてはならない三つのもっとも基本的な修行の部類です。
それぞれ、戒学は、悪をとどめ善を修すること。定学は、身心をしずかにして精神統一を行ない、雑念を払い思いが乱れないようにすること。慧学は、その静かになった心で正しく真実のすがたをみきわめること。この不即不離な三学の兼修が、仏道修行の完成をもたらすとされています。
(※東京書籍・仏教語大辞典引用)
この三学を修することが、鎌倉期以前の伝統的な仏教教学に於いて常識ともいえる修行概念であります。その三学を引用して、瑩山禅師は踏み込んだ解釈をなさっています。
「坐禅は、戒定慧(三学)に(教学上)関与しているというわけではないが、それでも(実質的に)この三学を修することを兼ねているのである。」
こうした慧眼な捉え方を、瑩山禅師様は坐禅の指南書『坐禅用心記』の中でお示しなのです。
『坐禅用心記』においては続けて、坐禅の戒は、単に防非止悪といった道徳・倫理的な戒にとどまらず相対的な観念を離れたこの上もない「心地無相戒」である、その定は、あらゆる束縛を離れ山や海のように雄大で落ち着き静かな「大定」である、その智慧は、一般には単に選びわかることを超え智慧の姿すらなくなる位大きな「大慧」である、とし、〝この上ない三学〟であると絶賛されています。
何故、坐禅を〝この上ない三学〟とされているのかといえば、三学を、机上で字面だけを読んで解釈しようとするのではなく、血の通う〝息づいた三学〟として受け取るべき、という強いメッセージが含まれている故だと推察します。
この四月から新たに、本山ゆかりの保育園で年長組を対象に、坐禅指導をおこなっています。
通常は廊下を走り回り、園の先生がたに手を焼かせているであろう園児たちも、いざ坐禅をさせれば、手を組み足を組み、まっすぐに坐った姿はまさに戒の姿。それまでおしゃべりで騒がしかった教室内も、始まればたちまちに静寂に包まれ定の空間。そして、気が散ってきょろきょろしている園児も、時間が進むにつれ、一人二人と自主的に取り組み始める様子は慧の雰囲気。
思いがけず、こうした坐禅にまつわる現場で「三学を兼ねたり」の端諸をつかみかけたような気がしました。
三学のみならず、膨大な経論に書かれた数かずの難解な仏教用語も、もともとは何気ない普段の日常に現成した真実から派生した文言なのではないか、とも今回のことで思うのです。
日常にこそ大切な教えはある、とばかりに、まずはこの金言を吟味しながら坐禅は勿論、日日の起居動作も一つ一つ丁寧に取り組みたいものです。