本山をお開きになられた瑩山禅師様は「仏さまのお言葉を見るという事は、仏さまのお姿を見る事である。仏さまのお姿を見るという事は、仏さまのお諭しを実際に行ってゆく事である。」とお示しになられました。
今月八月は月遅れのお盆があります。首都圏では七月にお盆の供養が勤められていますが、地方では八月に営まれるのが一般的です。毎年この時期、都会に暮らしている多くの方々がいっせいにそれぞれの故郷へ戻ってゆく様子はさながら民族大移動のようで、たくさんの人々で混雑を極める交通の状況はお盆の風物詩として報道されます。往復するのに大変な思いをするのですが、それでもお盆の期間は生まれ育った土地で過ごしたいというのが日本人の感覚でありましょう。懐かしい景色と懐かしい顔に囲まれて、今は亡き父母、祖父母、遠い御先祖様を偲ぶ時間は何ものにも代え難いものがあります。
昨年、相次いで義父母を亡くした檀家のご主人が、こういう事を話してくれました。「早いもので、もう一周忌がやってきます。遠出をする用事がある度に、義父母を誘って一緒に行くようにしていました。二人が亡くなった後、共に巡った場所を再び訪ねると様々な事を思い出します、生きていた頃よりもより深く、より鮮やかに」と。亡くなったその老夫婦を私もよく知っているのですが、二人はずっと家業の商売に自分の時間を全て捧げてきた人でした。朝ご飯を済ませると直ぐに店に出掛け、夜閉店後に戸締りをしてから帰宅し、晩ご飯を食べ入浴を済ませ倒れ込むように床に就くという一日を繰り返し暮らしていました。息子に経営を譲ってからも、朝から晩まで店に立ち続け家には寝る為にだけ帰るという生活を、二人とも最後に入院するまで変える事はありませんでした。八十歳を過ぎても忙しく立ち働いていましたが、職場の仲間とお客さんに恵まれ、生涯を現役で過ごせた幸せな人生です。娘夫婦はそんな仕事一筋の老いた両親に息抜きをさせようと、機会を作っては連れ出すよう心掛けていたのです。
私達は残念ながら、人でも物でも失ってから初めて、その大切さ、ありがたさを知るという事が多多あります。親しい人がこの世を去って感じる悲しみの大きさは、気付かずに自分がその人から与えられていたものの大きさに他なりません。亡き人は遺してゆかなければならない気掛かりな方々の幸せを祈り、後を託して再び大きな命の流れの中へ戻ってゆきました。
今を生きる私達は、亡き人から後を託されて幸せであれと祈られているのです。心配して見守ってくれている故人が安心できる生き方を私達が営む事が、何よりの供養となります。安心してもらえる生き方とは、調えられた生き方です。調えられた生き方とは、仏さまのような生き方、坐禅の生き方です。
「身を調え、息を調え、心を調える。」
仏さまのお諭しの言葉は、仏さまの生き方そのもの。仏さまの生き方を知り得た私達は、実際に自らの生き方をそれに重ねて調えてゆく事がかなうはずです。一つ一つ調えて、一歩一歩仏さまの生き方を目指して、勤め励み続けるのが修行です。一瞬一瞬の積み重ねが、やがてその人の人生を形作ります。今、ここ、この瞬間を、全力を尽くして丁寧に調えながら精一杯生き抜く事を心掛けましょう。人生とは仏道修行そのものなのです。