現代において何事もあいまいにせず明確化にする風潮が主流となり、その代表格としては、「数値化」という言葉があげられます。
この「数値化」は、よくよく見れば私たちの身の周りに溢れかえっているのが現代社会の実情です。
時計も温度計も、数値表示が主流です。テレビ画面でその日の降水確率のチェックが日課となり、定期の健康診断の数値に一喜一憂し、飲食店の評価点でお店選びをする。着実に「数値化」は私たちの日常になくてはならない必要なものになっています。必要な情報が明確にわかることは大変便利なことです。
一方で、学校では偏差値が学校選びの基準となり、普段の授業態度が内申点となります。会社では業績や社内の営業成績も数値で一目瞭然です。自ずと競争による発展が進みます。結果として「数値化」は、私たちに便利をもたらす半面、優位や利益を求められ窮屈な一面もあります。はっきりあらわれた数字こそ最も優れた価値観だとばかりに、「数値化」によっていつの間にか自身が翻弄されることもあるのです。
優位・利益のように明らかに見えるものではなく、それらを離れた見えないところにこそ尊いものがあることを、本山開祖瑩山禅師さまは著書『伝光録・迦那提婆尊者章』内でご指摘なさっています。
お釈迦様を初祖と仰いで十五祖に数えられる迦那提婆尊者の地元南インドのとある地方にある時、その師匠である十四祖・龍樹尊者がお越しになり人びとに仏法を説かれました。聞いていた人びとは「利益を求めるのは世間で一番大事なこと。だが龍樹尊者はいたずらに仏性を説くが、誰が仏性を見ることが出来よう」と口ぐちに言いたてたといいます。その声に対し龍樹尊者は冒頭のお言葉で説得されたのです。
曰く「(あなた達は)仏性を見たいと思うのか。それなら先ず己に執着した慢心(※我慢のこと)を除かなければならない」と。
そのお言葉を皮切りに仏性について述べられ、お聞きになっていた迦那提婆尊者と師弟の縁を結ぶこととなったのです。
数字で示されたものばかりでなく、見えないけれども大切なものがあることを、今現代に生きる私たちだからこそ、改めて一人一人が意識的に問いかける時代なのではないでしょうか。
見えるもののいちばん身近なものが鏡に映る自分自身の姿だとしたら、見えないもののいちばん身近なものは、日常の自分自身のあり方でしょう。まずは「数値化」の浸透で優位や利益を求める自分・翻弄されている自分に気づくこと。
そのためにも、目や耳などから飛び込んでくる情報はいったん遮断し、静かに己に向きあうひと時を大切にしたいものです。