「伝光録」とは、お釈迦さまから脈々と伝わる仏法が、インドから中国・日本の祖師まで、代々のお師匠様からお弟子に伝えられる様子を修行者にわかりやすい言葉で示された書物です。瑩山禅師の著された「伝光録」は、道元禅師の「正法眼蔵」と共に、曹洞宗の中では根本聖典と位置付けられています。
標題は、道元禅師のお師匠様である天童如浄禅師に、そのお師匠様である雪竇智鑑禅師から教えが伝えられた様子を記した章に示された言葉です。
意味としては、「本当の仏法に専心して、今流行のやり方に迎合せず、進んで古くから伝わる仏法を学ばなければならない」ということです。
如浄禅師の時代にあっても、仏法を学ぶものがその時代に流行する考え方にのみとらわれてしまい、正しい仏法を見失ってしまうことがあったのでしょう。古くから伝わる教えをしっかり学びなさい、という戒めが示されています。古くから伝わることがらは、時代の流れの中でも消えずに残ってきたもの、と考えれば、その中には時代の流れに左右されない大切な教えが含まれているのだと考えて差し支えありません。それを学んでいくことは、私たちが生きていく上でとても大切なことを学んでいくことになるのです。
日本人はよく新しいもの好きな国民だといわれます。振り返ってみると、特に時代の変わり目には、新しいものがよいこととされ、古いものは捨てる風潮が生まれました。その捨てられたものの中には、人々がより良く生活するにおいて大切な価値観や倫理観も含まれていたのではないでしょうか。
そのため、現在の日本社会では、自分だけがよかったらそれでいいという風潮が広くいきわたってしまったように感じます。
そして、残念なことに捨てられたものの中に生きた仏の教えも入っていたように思います。今では多くの人の印象として、仏教に関する全てが古臭くて時代に合わず役に立たないもの、としか捉えられていないのかもしれません。
しかし、仏法はお釈迦様以来、二千五百年以上に渡って場所は違えどその時その場に適応し、人々の心を支え続け今まで途絶えずに伝わってきた教えなのです。
たとえば日本特有の仏教由来の行事にも人が生きていく上で大切な真理が示されています。
皆さんは伝統的なお寺の法要や葬儀・法事、さらには授戒会や参禅会・摂心といった仏事に参加されたときにどのような感覚をもたれるでしょうか。いささか窮屈な空間と時間に感じるかもしれません。ただ視点を変えてみますと、仏事というのは慌ただしい日常を離れた貴重な空間と時間です。そのような貴重な機会で、仏様を介して、人としての生き方を示す教えをお経や法話・提唱などによって学んでいく。そのようなことが普段の日常生活の中にあるでしょうか。
伝統的な仏事で仏法に触れていたから、ひとたび人生の苦境(病気や事故・災害あるいはリストラ等)となった場面で救われた、という方の話は意外とよく耳にします。仏事に参加するだけでも、今なお仏法は人々の支えになり得るのです。
現代は自由の時代といわれますが、自由を持て余す人が多くいらっしゃるように思います。与えられた自由だけでは、何らかの足場すなわち支えになるものがなければ、たちまち不安定なものになってしまいます。
仏法に触れるためにも古風の教えや行事を進んで学び体験してみる。そうすることで、自由だけれども不安定な時代においての足場となり、皆さんの生き方の道しるべとなるのではないでしょうか。