今年、瑩山禅師七百回大遠忌予修法要の年を迎えました。来年が本法要の年です。
表題の「影向」とは来臨ということ、つまりお出ましになる、現れる、という意味です。
道場を心細やかに整えて清浄に保っていれば必ず、目には見えない仏菩薩・神々が現れてその場所を、そしてそこに住まう者たちをお守りくださるというのです。
目には見えぬものを見、耳には聞こえぬものを聞く。瑩山禅師が感じていた世界とは一体どのようなものだったのでしょう。
「ことしより、八幡の神の現れて、我たつ杣の守となるかな」
『洞谷記』
杣とは材木を切り出した山、永光寺を建立するための用地になりました。守とは守護神のことです。
瑩山禅師五十歳の時に開かれたとされる永光寺。発願して境内・建物が整うまでに時間を要したことは、禅師自らが記した通りです。
五年を経て五十五歳の時、浴室・トイレ・坐禅堂が建立され、九年を経て仏殿の建設が始まり上棟式が行われたとの記録が残されています。
その一三二二年正月二十七日、禅師は夢をご覧になられます。その時に詠んだ歌が、先述の和歌です。夢のお告げでは、永光寺建立のために切り開いた土地の守護神に、八幡大菩薩が就いてくださる。ということでした。八幡の神とは、武運長久・出世開運のご利益があると知られる神のことです。
瑩山禅師はその他にも、お亡くなりになる三ヶ月ほど前、「開山之両願」の菩提心を発し女流済度の誓願を新たにされた折にも、夢の逸話が残されております。
「精進を重ねた先に見る夢そして仏菩薩・神々とは・・・」
それでは、瑩山禅師の思いや願い、そして建物建立事業を支えた仏菩薩や神々とは、一体どなたを表していたのでしょう。
それを解くカギが、ご自身の記述に出て参ります。
一三一九年禅師五十六歳、祖忍大姉に法名を授け、その黙譜祖忍より永光寺境内地の寄進を受けた年。次のようにお示しです。
「檀那(信者)を敬うこと仏の如くすべし。戒定慧解、皆檀那(信者)の力によって成就す。」
出家して戒法を授かるところから、解脱(おさとり)に至るまで、全ては檀越(信者)の力によるという一文です。更には「瑩山が今生の仏法修行、この檀越(信者)の信心によりて成就す。」とまでお示しです。
居住まいを調え、境内建物を整え、それを守っていく瑩山禅師のお姿を支えた信者・寄進の方々、作業にあたる人々、そして更には、禅師を慕ってやって来た弟子や、若き僧達の姿こそ、禅師が見た仏菩薩の姿であり神々の在り様であったのだと感じずにはいられません。
ご自身の取り組みを支えてくれた環境や、人々からの力添えを骨身に感じ、精進を続けたご一代。それが瑩山禅師の足跡でありましょう。私たちも日々の暮らしの中に、仏菩薩・神々を見つけ出す眼力を養いたいものです。