今月のことのは

總持の一門、
 八字に打開す。
そうじのいちもん、
  はちじにだかいす。
本山開祖瑩山禅師『總持寺中興縁起』

現在、瑩山禅師七百回大遠忌予修法要が、日本のみならず海外でも開催されております。歴代の祖師方より相承されてきた正伝の仏法が、世界の平和の光となりますことを祈念申し上げます。

私は十六年前に大本山總持寺で修行させて頂きました。安居前は大学院で原始仏教を学んでおりましたので、学問的な仏教の世界とはあまりにも違う修行生活に正直戸惑いました。しかし最初に感動したのは、大祖堂で百人近い修行僧が読経しながら歩く行道の姿でした。長い年月受け継がれてきた法要儀式は、それまで自分が得た知識と経験を吹き飛ばす迫力があり、まさに仏の家にこの身を投げ入れて、ただ只管に修行する日々が始まりました。

御本山での修行が三年目を過ぎた頃『正法眼蔵』を改めて読む機会があり、坐禅だけではなく、なぜ御祈祷、供養諷経をするのか考えるようになりました。釈尊や道元禅師様の教えと乖離してはいないだろうか。理想と現実の狭間で心が揺れ、修行とは何か悩む日々が続きました。

ちょうどその頃、当時後堂老師として新たに上山された現總持寺副貫首盛田正孝老師に相見させていただき、多くの教えを賜りました。私が悩んでいた問題についてもその道標を示してくださり、そこから私の修行が変わりました。その問題について私が思う所を述べさせていただきます。

お釈迦様が布教伝道されたインドの地で仏教が衰退した理由は様々ありますが、その一つに葬儀を行わなかったからではないかという説があります。仏教があまりにも学問的になり、無常に苦しむ民衆の声が届かなくなった事が考えれます。どんなに素晴らしい教えであっても、伝わらなければ無くなってしまいます。道元禅師様がお釈迦様を慕われたように、瑩山禅師様も道元禅師様を慕うが故に、そのみ教えをいかに伝えるべきか苦慮されたのではないでしょうか。瑩山禅師様が御自身を「白山の氏子なり『洞谷記』」と仰ったのは、北陸地方で盛んな白山信仰を大切にしてきた民衆を思ってのことでしょう。いきなり只管打坐を教えても伝わらなかった可能性があります。

ここ数年の告諭では「同事」が重要なテーマとして挙げられています。道元禅師様は「同事」について「佗をして自に同ぜしめて後に自をして佗に同ぜしむる道理あるべし」と説かれています。なぜ「他者が自分に同じくする」ことが先なのでしょうか。それは相手が本当に自分を信頼していなければ、大切な事は伝わらないからだと思います。他者が自分を信じるに値する生き方をしているか、我々の力量が試されているのです。

つまり瑩山禅師様の布教の在り方として、民衆が(他をして)自分を信頼してもらう(自に同ぜしめる)事がまず初めで、それから徐々に道元禅師様の教えを伝えられたと私は思います。總持とは陀羅尼を意味する言葉ですから、真言的な祈祷を取り入れられたのも、そのような理由が考えられます。ですから民衆の気持ちに寄り添いながら布教された瑩山禅師様のご一代は、道元禅師様の「同事」の教えに相反するものではないのです。

瑩山禅師様は夢の中で、總持寺の元となる諸嶽観音堂の楼門に入られたところで「總持の一門、八字に打開す」と唱えられました。これが總持寺という寺名の由来です。漢字の「八」の字のように、正伝の仏法が広く行き渡ることを願う瑩山禅師様のお心が伝わって参ります。瑩山禅師様の御遺徳を、皆様も一緒に感じ取っていただければ幸いです。

令和5年6月
永泉寺 副住職 猪股尚典老師