表題は大本山總持寺御開山瑩山禅師が、お亡くなりになる三か月程前に撰述されたお言葉です。「生まれ変わり死に変わりを繰り返す中で、どこにあっても、人々と共に仏の教えを学び、伝え、努め、皆ともに悟りに至るまでそれを続けていこう」
私たちの生きる此岸から、お悟りの世界である彼岸に渡るため、仏教では修行を積むわけです。瑩山禅師は、また何度もここに生まれ変わり人々を救い続けるとおっしゃった。いわばそれは私たちの悲しみに直に寄り添い、そしてこれからもずっと共に泣き笑うという決意です。自らは仏とならずとも、必ず全ての人を彼岸へと渡すのだという誓願をされました。これはまさに菩薩の生き方です。
数年前、一人の女性が私のお預かりしているお寺の門をくぐられました。玄関で彼女は「お葬式の準備をしに来ました」と言いました。三十代の方でしたので、その時私はご両親のどちらかのお話なのだろうと思い控室にお通ししました。
来客用のテーブルに置かれたお茶。その湯気越しに、彼女は自分が病気になり医者から宣告を受けたことを教えてくれました。彼女の職業は看護師です。ですので、その病気にかかり宣告をされたということが、これから自分がどういった過程をたどっていくのか、人よりも具体的に想像できてしまう。もちろん命をあきらめたのではない。しかし家族に迷惑をできる限りかけたくないという思いから、まず知り合いの葬儀社を訪れ、その足でたまたまご縁のあったお寺に訪ねて来られたわけです。
「その時はお世話になります。」彼女は軽い口調でもなく、重い口調でもなく、そうおっしゃいました。
メールアドレスを交換し、幾度かのやり取りをし、約二か月かけて一文字一文字その方のご戒名を決めました。そしてお寺の本堂で簡単な儀式をし、お授けしました。その時どういった気持ちで彼女が受け取られたのか、どんなに察しようにも察しきれないです。ただ彼女は大切そうにご戒名の書かれた血脈を受け取られました。
「これで私もいいところに行けますね。」
それからも彼女はお寺に足を運んでくれました。そして色々な思いを話してくれました。子どものこと、夫のこと、親のこと、職場のこと。
彼女は言います
「私生まれ変わってもまた看護師を続けます」
「もしもう一度始まるなら、必ず看護師になります。」
私はこの言葉を今日に至るまで何度も噛みしめています。生まれ変わったらお金持ちに生まれたいとか、そういう事を言っているのではないのです。彼女は生まれ変わっても、また同じような生き方をしたいとおっしゃった。私にこれが言えるだろうかと反芻します。生まれ変わったらもう一度僧侶として生きたいか…違う生き方もしてみたいと、つい思ってしまう未熟な私です。これをお読みの皆さんはどうでしょうか。
今日が充実し楽しければ、明日もそうありたいと自然と願います。今日の私の生き方に嘘がない人、そんな毎日を積み重ねてきた人だけが、来世もそうありたいと心から言えるのだろうと思いました。
私もあなたのようでありたい。時折、彼女に手を合わせます。
彼女の願いを通して私は瑩山禅師さまの心にも触れている気がいたします。
来年は大本山總持寺御開山、瑩山禅師の七百回大遠忌です。