人間は思量し分別しなければ毎日の生活はできません。様々な日常の場面において思慮分別することは人間として社会的ルールを守る上でも大切なことです。しかし、仏道では、この「思慮」・「分別」は両刃の剣のようなものととらえ、良い面と悪い面の両方があると言います。日常生活で必要だけれども、一方で迷いの根源だと言います。
「分別」とは、心がある対象の一部を分けてとらえることです。物事の実物から一部分だけを切り分けることが「分」・「別」に他ありません。
そういう意味では、自分を取り巻く世界とは自分が分別した世界のことです。そして、人間の分別によって、まだ名前もつけられない「もの自体」について概念や名称を付与して抽象化・概念化しています。
たとえば、ある花について「ハス」という言葉・概念を結びつけます。それからこうした概念に基づいて、比較して判断するのも「分別」のハタラキです。たとえば、人間を評価する場合は学歴・地位・経済力・財産などが目に見える物差しです。こうした物差しは比べることできますが、人間そのものがもつ物差しではなく、あくまで借りてきたものさしです。
自己を知るためには、分別・差別する考えから自由になる必要があります。
禅修行に関しては、分別を超えて「自分自身そのもの」を知ることが強調されています。そのため、自分の思いを持ち込まず、迷ったものの見方である妄見を捨て去る必要があります。瑩山禅師の『坐禅用心記』には「万事を抛下し諸縁を休息し仏法世法に菅せず、道情、世情双べ忘じて是非もなく、善悪もなし」と記されています
人間は自分を取り巻く環境に対して、自分の見解を用いながら判断します。しかし、現在の世の中は多様化によって簡単に判断することできません。今まで「善」だと言われたことは明日から「悪」となることもあります。したがって、「分別」せず、「差別」せずに「もの自体」を観れば改めて「ものの本質」に気付くことできるのではないでしょうか。
表題のお言葉は、瑩山禅師が撰述された『伝光録』の中のお言葉です。意味は「仏教の究極においては、だれもがこれが正しいとか、これが間違っているとか、これが良いとか、これが悪いとか、さらに、男であるとか、女であるとか、そういったすべての自己の分別を超越しなければならない」と解釈したいと思います。
分別をもってルールやしきたりに従うことは、社会秩序を維持するために必要なことなのですが、自己を深く参究するならば、仏教が提唱する分別を超えた絶対平等の世界観にも目を向けなければならないのです。