今月九月の十七日は「十五夜の月」です。旧暦では、七月・八月・九月の三ヶ月を秋とし、それぞれ「初秋・仲秋・晩秋」と呼んだことから、旧暦・八月の十五夜の月を「仲秋の名月」と名付けました。また、ちょうど収穫の時期にあたるということから、別名「芋名月」とも称され、ススキや月見団子、サトイモや豆・栗などをお供えして、お月見を楽しむといった風習が受けつがれております。
たとえ雲に隠れてお月見ができなくても、それを「無月」と言い、また、雨が降って月の光に照らされなくても、それを「雨月」と言って、それなりに風情を楽しむ知恵が、日本の伝統にはあります。例えば影山筍吉は「わが船のマスト灯れる無月かな」と、月のない暗黒の大海原を行く船の情景を詠み、また高浜虚子は「枝豆を喰えば雨月の情あり」と、雨にけむる月なき夜の心情を詠んでいます。
このように、俳句に詠むことはできなくても、名月に思いを寄せながら、ゆっくりと眺める心のゆとりだけは、せめて持ち続けていきたいものだと思います。
さて、ご開山さまは、正中二年八月十五日の満月の夜にお亡くなりになられました。多くのお弟子さまに看取られながら、静かに涅槃にお入りになられたと言います。この夜の月を、峨山禅師さまや明峰禅師さまたちは、どのようなお気持ちでご覧になられたのでしょうか。
熊本の廣福寺をお開きになられた大智禅師さまは、「中秋の月は毎年同じであっても、今宵の月は特に人々を寂しい気持ちにさせてやまない」と詩に詠じておられます。やさしい月の光の中で、ご開山様に対する哀愁の思いがますます深まっていかれたことでしょう。
ところで、日本では一般的に月の表面の模様を「餅をつくウサギ」というように表現しますが、例えば「バケツを運ぶ少女」、「本を読むおばあさん」、「大きなハサミを持つカニ」、「吠えているライオン」というように、国や地方によってさまざまな見方があるようです。
空に浮かぶ月のすがたは同じであっても、その国の伝統や文化、生活環境や風習の違いなどによって、それぞれ見方が変わってまいりますが、さらに言えば、その日の気分や状況によっても、全く違った月のすがたが現れてきます。つまりは、月を見る人の心のあり方が、そのまま月に映し出されているのです。
お釈迦さまのお言葉に、「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。影がそのからだから離れないように。」(中村元訳)とあります。
私たちはそのものを直接見たり聞いたりしているのではなく、自分の心に映し出された影を見たり聞いたりしているのです。ですから、実り多き豊かな人生を創造するためには、自分の心をよりよく養っていかなければなりません。
ご開山さまは、最後のお示しの中で、「鍬をふるって田畑を耕すように、自らの心をしっかりと耕していきなさい。」とおっしゃいました。
仏さまのみ教えを真摯に学びながら、そのことについて自分でよく考え、それを実践するという修行を通して、自らの心を豊かに養ってまいりたいと思います。