忘れられない出会い、皆様の中にもありませんか。
十年ほど前のことです。私は車を運転して、街中のお檀家さんのところへお参りに伺いました。車から降りると、お家のそばの公園で手をつないで楽しそうに散歩をしている親子に気がつきました。お母さんと多分、四、五歳の男の子。二人のあまりに楽しそうな散歩の様子に、私もなんだか嬉しくなってしまいました。
そんな微笑ましい光景に気持ちが和んでいると・・・ピーポー、ピーポー、遠くから甲高いサイレンの音がきこえてきました。「ああ、救急車だ・・・。重体でなければいいな。」先ほどの浮き浮きした気持ちから、何となく重苦しい気持ちになりました。
気がつくと、男の子はしゃがみ込んで目をぎゅっとつむり、耳を両手で塞いでいます。救急車のサイレンをきくのは初めてだったらしく、「怖いよう。あの音、とめて!」と泣きながらお母さんに訴えています。
お母さんは、子供のそばにしゃがみ込むと、ゆっくりとこう言いました。「あれは、救急車という車のサイレンよ。救急車はね、怪我をした人、具合が悪い人を乗せて、急いでお医者さんたちのところに走っていくの。ここに具合が悪い人がいますよー、だから、急いでいますよーって、みんなにわかってもらうために、ああやって、大きな音を出して走っているのよ。」
男の子はすすり泣きをしながら、下を向いて耳をおさえたまま、その場から動くことができません。そうしているうちに、公園前の道路に救急車がやってきました。サイレンの音があたりに一層大きく響きわたります。
そして、救急車が親子の前を通り過ぎようとした時です。男の子は急に立ち上がると、救急車をまっすぐにみつめ、サイレンに負けないくらいの大きな声でこう叫んでいました。
「がんばれー、がんばれー!」
サイレンに怯えていた男の子はもうどこにもいません。そこにいたのは、顔をあわせたこともない救急車の中の誰かを気遣い、心をよせる男の子。救急車が通り過ぎてから、「早く元気になるといいね!」と話しながら散歩に戻る親子に、私は知らず手をあわせていました。この親子の姿は、十年経った今も私の中に確かに息づいています。
「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す。」瑩山禅師のお言葉です。「日常そのものが真実であり、その瞬間瞬間の味わいにしっかりと向き合うのだ。」という励ましのお言葉であると私は頂いております。
お茶でも、ご飯でも、出来事でも、人でも、私たちの体験、過ごした時間はすべてご縁です。そして、そのご縁一つ一つが集まり集まって、今の「わたし」を作っているのです。今の「わたし」は、先ほどの親子で、救急車にのっていらっしゃった方で、道ですれちがった人たちで、知人で、友人で、家族で、両親で、今朝、頂いた食事で、昨日の睡眠で・・・ここではとても書ききれないご縁によって、形作られています。
瞬間瞬間の味わいにしっかりと向き合うということは、そのご縁との出会いを大切にするということです。そして、その目の前のご縁一つ一つにしっかりと向き合うことで、私たちはそのご縁によって形作られる「自分」を大切に生きていくことができるのではないでしょうか。