今月のことのは

必ず我あることを知るべし 己あることを知るべし
かならずわれあることをしるべし おのれあることをしるべし
本山開祖瑩山禅師『伝光録』 第四十祖 同安丕(ひ)禅師章

 新しい年を迎えました。みなさんは總持寺に初詣にいらしたことはおありですか?

 正月の三が日、總持寺には数万人もの初詣の参拝者が来山し、参道には多くの露店が並び賑わいを見せます。特に本年、總持寺のご本尊さまであるお釈迦さまが祀られた仏殿は、大遠忌記念事業であった耐震改修工事落慶により初詣としては四年ぶりにお参り頂けることになりました。

 言わずもがな、總持寺だけでなく全国では年初めに多くの人が神仏に手を合わせ、自分や家族の幸せなどを祈願する光景は日本の風物詩です。

 ある年、總持寺へ初詣に行った時のことです。私は大祖堂の瑩山禅師様に手を合わせ、「今年一年自分や家族が幸せに過ごせますように」と心の中で祈念しました。そして晴れやかな気持ちで大祖堂を後にしようと思ったその時、一つの疑問が湧いてきました。

 「この世のあらゆる人を救いたい」という願いに生きた瑩山禅師様の教えを学び、修行する身でありながら、「私」や「私の家族」だけのことを祈っていて良かったのだろうか?…とはいっても正直なところ、(お賽銭を入れて)初詣に「私の事はどうなっても結構です。世界中の方が幸せになりますように」と願えるほどの境涯には残念ながら至っていないのです。

 そんなモヤモヤを拭い去れないまま過ごしていると、ある経典(相応部経典三,八)に出会いました。その経典にはこのようにあります。

 釈尊がこの世にいらっしゃった頃のお話です。

 古代インドの王国であるコーサラ国のパセーナディ王は、マリッカー夫人とこのような会話をされました。

「妃よこの世で自分よりも愛しいものがあると思うか?」

「大王、私には自分よりも愛しいと思われるものはありません。」

「そうか妃よ、私にもそのようにしか思うことが出来ない。」

愛を誓った伴侶に、「自分が一番大切だ」と言えるでしょうか?たとえ心に思ったとしても私にはとても口にすることできません。

 さて、二人は正直な心を吐露し合いましたが、本当にこれで良いものなのか思い悩みました。パセーナディ王は、尊敬しているお釈迦様のもとへ訪れ、顛末を伝えその是非を問いました。

 お釈迦様はその話をじっくりと聞いた上、深くうなずき、次のような教えを説かれました。

「人の思惟(おもい)は、何処(いずこ)へも行くことができる。

されど、何処(いずこ)へ行こうとも、

人は、己れより(いと)しきものを見いだすことを得ない

それと同じように、

すべて他の人々にも自己はこのうえもなく愛しい

されば、

おのれの愛しいことを知るものは

()のものを害してはならぬ」(「阿含経典による仏教の根本聖典」(増谷文雄著)より抜粋)

 人の心には拭い難い「自分だけを大切にするこころ」があると仏教では捉えています。

 お釈迦様は、「自分が愛しい」と思う「利己的な我執のこころ」を受け止めてくださった上で、そのこころを「相手をおもう慈悲の精神」へと一八〇度転回される可能性を示されました。

 つまり「自分だけを大切にするこころ」を、「他人に危害を与える事ができない根拠」にされていらっしゃるのです。だからまずもって「自分を大切にするこころ」を知らなくてはいけないのです。

 瑩山禅師様は「必ず我あることを知るべし、己あることを知るべし」とお示しになられました。

 「この世のあらゆる人を救いたい」という願いに生きた瑩山禅師様のお言葉だからこそ、相手のこころに思いを寄せ、決して害を与えることなく、思いやりをもって慈悲に生きる根拠として示されたのではないでしょうか。

 地球上では戦火が広がり、混沌とした状況に不安を感じています。瑩山禅師様の法孫として、年の初めに改めてそのお言葉を深く噛みしめてみたいと思います。

令和7年1月
神奈川県 静翁寺副住職 亀野元彰師