今月のことのは

「無事」― 有求皆苦 無求即楽
     求むること有るは皆な苦なり、
     求むること無くば即ち楽なる。
ぶじ うぐかいく むぐそくらく
   もとむることあるはみなくなり もとむることなくばすなわちらくなる
達磨大師「菩提達磨大師四行」

 私達は、平素よく「無事」という言葉を使います。日常生活に、変わりがないこと、健康であること、平穏であることの感謝や願望を表す言葉として使われております。例えば、災害や事故の時、「本人は無事だった」、「あの方は無事であっただろうか」などと使われます。

 一般的に、「無事」とは何事もないということです。しかし、禅語としての「無事」は違う意味を持ちます。禅宗の「無事」には深い意味があり、馳求心(ちぐしん)を捨て切ったさわやかな境涯です。言い換えれば、外に向かって求める心がないという意味です。

 人間は、いつも何かを求めていると言ってよいでしょう。困ることがなくても、お金はもっと欲しいし、便利な道具や美しい洋服も欲しいでしょう。皆、より快適な生活を望んだりしますが、現実にはなかなか思うように行きません。思い通りにならないと、腹をたて、不満を感じます。求めている物が得られないと、不満だけではなく、人間は苦しみ・悲しみにしずむ時もあるでしょう。

 思い通りにならないこと、これが人生の不安・苦悩・迷いの原因の一つです。お経の中で、「求不得苦(ぐふとっく)」という言葉があります。それは、「求める物が得られない苦しみ」という意味です。しかし、苦しみの原因を除くということはなかなか難しいことです。禅の教えの中では「無所求行(むしょぐぎょう)」(求むる所なきの行)が強調されています。

 求める心を捨てるといっても、無気力無関心で、惰性で生きろということではありません。また、財産や名誉をあくせく求めるなという表面的な戒めとも違います。禅宗の「無事」とは、求めなくてもよいことに気づいた安らぎの境地が得られるということです。

 初めて禅の教えを中国にお伝えされ、中国禅宗の開祖とされている達磨大師が『菩提達磨大師四行』の中で次のようにお示し下さいました。

 「有求皆苦 無求即楽」という言葉があります。現代語訳でいうと、「求むること有るは皆な苦なり、求むること無くば即ち楽なる。」達磨大師は「救い」「しあわせ」 などといったものを頭に描いて、それを自分の外に追い求めることを戒められています。それらは求めて得られるどころか、求めれば求めるほど遠くへ逃げていってしまうものなのです。一旦、そういったものを求める心を捨てれば、煩いが無い、引っかかるものが無いという「無事」の境地に到ることができるとお教えくださいました。

 同じように、臨済宗の開祖とされている臨済禅師は「求心(ぐしん)やむ処即ち無事」とお示しされました。求心すること、すなわち求める心がなくなったところが無事であり、安心であるというわけです。「有求皆苦 無求即楽」と言う言葉は人間本来の静かな心に立ち返りなさいとおしえられているような気がします。

 お金も欲しい、地位も欲しい私達にとって、「有求皆苦 無求即楽」は生き方のヒントにもなる言葉だと思います。私たちは、新しい欲望が絶えず生み出され、常に新しいニーズにさらされている世界に生きています。絶え間なく生まれる物質的な欲求を、より早く満たさなければならないと気ぜわしく過ごしてしまいます。その結果、私たちは、健康や家族など、人生で大切なものを見失ってしまいがちです。

 このことに気づき、あらゆる物質的な欲望を追い求めることをやめたときのみ、私たちは安らぎの「無事」を感じる状態に到達することができるでしょう。有求皆苦。無求即楽。

令和7年2月
本山国際室主事 ゲッペルト昭元